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金メダル

ある日の下北半島‐CGスケッチ

オリンピック試合後の選手インタビューを聞いているとどんな選手でも絶対に金メダルが欲しいんだなと感じさせられる

(現在の)自分の限界を越えて何かに到達するには誰しも強い動機を必要とする必要度が強いほど努力もするしそのための我慢もできるその極限のかたちをぶつけ合う最高の場がたぶんオリンピックなのだ「他人に勝つ」という歓びは本能的なものだろうがそれを増幅し続ける人生とはどんなものなのかわたしには想像が及ばない銀でも銅でもすごいことだと思うけれど彼らにとって金メダルとはそれらを何十個足しても替わりにはならないものなのだなということだけは分かったような気がする

金メダル=1位なら1位の称号でも同じことかといえばきっとそうではないだろう明らかな「物的証拠」として「金メダル」が欲しいのだ金メダルを齧るポーズがちょっといやらしいと思っていたがもっとも敏感な口回りの神経で金メダルに触るその物質感が(精神衛生上)必要なのだろうと思いなおした

気楽に見たり聞いたりするだけのわたしにとっては頑張って自分が何かを得ればそれで十分ではないか自己新記録を出すだけでも立派だなどと思うそれが間違っているとは思わないがそんな風に考えている選手は(少なくともオリンピック選手には)一人もいないということが分かった

8月の俳句季語

エスキース Aug 1 ’21

八月の俳句季語について3拾ってみるとりあえず「山滴る」「天牛」「玫瑰」から「山滴(したた)る」山が「滴る」って感覚がすごい山全体が瑞々しく潤いそこからじわじわと滲みだしてくるような鋭敏で鮮烈雄大な大きさ草田男の「万緑」に匹敵するような気がするこんなすごい季語を安易に遣ってしまうと句全体が季語負けしてしまいそうだちなみに「八月」自体は俳句では「秋」ことしの立秋は8月7日(土)である

「山滴り」という季語があるこちらのほうが多分古い季語だろう「山滴る」とほとんど同じような字面だがこちらは岩や苔の上を染みるともなく滴るあの滴りのことらしい掌に受けて顔を洗い喉に流し込むときの清涼感溢れる情景が目に浮かぶ「山清水」「石清水」という季語感に近い山滴りの焦点距離はせいぜい1メートル以内か「滴る」と「滴り」のイメージはずいぶん違う

「天牛」はカミキリムシのこと捕まえると大きな触角と太い足を振り回しながら「ギーギー」と啼くそのがっしりした身体と太い触角が水牛を思わせたのだろう「天」はこの虫が空を飛ぶからだろうよく昆虫採集初歩の人の最初のコレクションになるという種類も多くよく見ると模様の美しさと堂々とした体躯が釣り合って鎧兜のようであるわたしは天牛という字面自体が好きだ天空を古代の戦闘馬車や御所車を牽いているイメージをつい浮かべてしまう

「玫瑰」は読めない人の方が多いのではないか「はまなす」と訓読する俳句では「浜茄子」「浜梨」とも使われる茄子とか梨とか書かれるのはその実が食べられるからだろう赤く熟すとほんのりと甘いバラ科の植物で鋭い棘がびっしり生え海岸に背の低い群落をつくるわたしの子どもの頃は延々十数キロに渡るハマナスの大群落がありわたしの原風景となっている母の葬儀の時はハマナスが満開であったことを覚えている花は品の良い赤紫で強い芳香がある天皇家では一人一人に「お印」とよばれる一種のトレードマークがあるそうだ「玫瑰」は雅子皇后のお印である

夏の季語にはおおらかで人を力づけてくれるような季語が多い記憶の中から自作の一句(「自慢の一句」ではない他を思い出せないだけ)
 廃校の土乾きけり雲の峰
廃校の一教室を絵画の制作場としていたころの一句子どもたちの歓声と汗を吸い込んでいたグラウンドの土も廃校になってすっかり乾いてしまった遠くに積乱雲が湧き立ち雄大な雲の峰となっている―「雲の峰」は夏の季語を代表するものの一つ