
Мислех, че картината е сърцето ми。
Не мисля, че това е грешка в наши дни、Не живея всеки ден, като се има предвид сърдечен ритъм、Опитвам се да избягвам да мисля по този начин。
Такъв начин на мислене、Когато почувствате задълбочаване на собствените си чувства、Може би съм мислил за това, преди да го разбера。Проследях плоските рафтове с очи в книжарница, когато ги проследявах с очите си.、Корица на книгата казва: „Когато сте объркани,、Видях думите „Направете избор, който ми е по -неблагоприятно“.。На някои глави、Просто извадете някои от нещата, които ви хващат окото и се завръщате、Това е обичайният начин、その時々の自分の心境や関心によってひょいと目を引かれることがある。つまり、それが今の心境を反映しているということになる。
ナショナル・ジオグラフィックという雑誌が、「世界のどこでも生き残るためのサバイバル技術」という別冊を出した。その中にも確か同じようなことが書いてあった。「迷った時は選択をせず、しばらく待て」。迷いの中では視野が狭くなり、本来ありえたはずの選択肢が頭から消えてしまうということだった(特に暗い中での選択はしてはならないとある)。
一言でいえば余裕が必要だということだろう。どんなに追い詰められても、というよりそういう状況であればあるほど、「動かない余裕」が大切だということだ。これは分かっていても難しい。いっそ選択肢が無い、一つしか道が無いと云う時には、人は迷わなくなり、心にも余裕が生まれるものだとも言う。
絵が自分の心臓だ、などと思い込むほど迷いは深くなりそうな気がしてきた。それを拝むように大事にし過ぎては、ガチガチになってかえって心臓を悪くしそうだ。逆に「絵は自分のウンコのようなものだ」と思えたら、どんどん排出、つまり制作できるのかも知れない。心臓とウンコではえらい違いだが、死んで化石になればどちらも似たようなものではなかろうか。
1991年イタリア・アルプスの氷河で5300年前(新石器時代)の男のミイラが発見された。通称アイスマンだ。昨年11月にあらためて解剖が行われ、その結果が今年の6月に一部発表された。そこで特に注目されたのは、アイスマンの体そのものより、その胃の中身だった。
人や物の価値は後世が決める。ウンコだって貴重な学術資料にもなり得るし、一世一代の絵だと力んでみても、残るかどうかは後世が決めるということに違いはないということだ。