「無意味」をジャンプする

スケッチブック

人生の残り少なくなった時間でなるべく「無意味」なことはしたくない=意味あることをしたいと考えていたその一方で生きるということにもともと意味なんかないという考えも高校生の頃からわたしのなかに常に一定のスペースを持っている

そして都合よくどちらかをオンオフにしてその場その場で自分を納得させてきたそれは2つの考え方が互いに矛盾すると思っていたからだが実はそれは同じものなのだと年を取るごとに思えてきたどちらもオンにすることが可能であるというのではなくむしろどちらもオンでなければ一方だけでは成り立たないことが解ってきたからだ

まず無意味=意味のないことではなくそれははるかに「積極的な」空白(空間)だということ絵を描くためには白いキャンバスが必要だと考えてもらえば解りやすいもう一つは「誰かにとっての無意味」は「他の誰かにとっての有意味」でもあるということ「誰にとっても意味あること」そんなものはあり得ない迷信かあるいはある種の洗脳の結果(たとえば「教育」という名の)に違いない(この意味では教育の功罪はもっと深く冷静に(国家単位などという小さなものではなく)常に吟味され続けるべきだと考えているがここはそれ以上を述べるのにふさわしい場ではない)

創作の場では「意味」は常に否定されるところから出発するひとつひとつの意味はすべて一度否定されるヘーゲルではないが名作は名作ではない美しいものは美しくないそこからしか創作は船出することができないのだ「そんなこたあ言われなくたって知ってらあ」と巻き舌の江戸弁で軽く返されそうだが確かにその程度のことなのに違いない。maar、もっと大事なのはその先でさらに積極的に「無意味」をどんどん創り出すことだそのことによって生きること誰かに意味づけられた人生をジャンプするにはそれしかない

午前0時ビデオ編集中

ビデオ撮影中

11月29日中にこのブログをアップロードしたかったが疲れて沈没してしまったポインセチアの制作ビデオを編集している途中だったわたしは(撮影にももたもたするが)ビデオ編集にすごい時間がかかる凝っているのでも慎重なのでもなく単純に「知識不足」のせいで

「青いカモメの絵画教室」チャンネルには38本もの動画がアップされているがいわゆる「動画」らしい動画はまだ10本程度それも古いのが6月頃からで大半が今年の8月以降ようするに最近になってやっとそれが作れるようになった。Bovendien,、曲がりなりにも作れるようになっただけでちゃんと理解できているわけでは全然ない

動画を作るには①撮影→カメラの知識・操作能力②編集→編集ソフトの知識・操作ナレーション等の言語能力BGMなどの音楽的素養③アップ→メディア関連の基本知識 等々が不可欠だがどれをとっても「不足」だらけここにはないがこれらの能力以前に何をやるべきかを考える企画能力が要るこれも??が点く一人での動画では作者=俳優(声優)でもあることが必要だがこれも???だそして計画性も✕

はっきり言って失格というより「不合格」じぶんでもかなりめげるがそれでも応援してくれるのが視聴者誰が見てくれているのか顔も分からないが最近はチャンネル全体で毎日150回(人?)以上の視聴があるそしてビデオのためのデモ制作を支えてくれる教室のメンバーたちこれらの人たちの期待?に応えたい気づけばそれがモチベーションになっているのである

反省を吹く

Autumn trumpet 水彩

「反省」をする時期になってきた嫌だなあ。12月が近くなってくると一年の反省を強いられる気分になって帳尻合わせのためについ頑張ろうとしてしまうそして当然のようにその結果はたいていろくなことにならない

そもそも1ヶ月でつじつまがあうくらいなら他の11カ月は何をやっているんだということになる悪い商習慣が巷を混乱させているともいえるのだがすでにそれが身体に染みこんでいてじっとしていると尻がこそばゆくなってしまう嫌だなあ

13月というのがあれば、12月はずっと気楽になるそういう意味なのかひところ「13月」という語が詩や詞のなかで使われた時代があるあるいは12月と1月のあいだの空白感を詩的に謳ったものだったのかいずれにせよ当時はなんとなく別空間ロマンチック感が漂ったものだったが今はほぼ見当たらないのが時代の変化ということなのだろう

1月はどうだろう逆にポカーンと冬空に一辺の白い雲みたいな気分や新しさでキラキラした気分を醸し出そうとマスコミも躍起になるそしてこれまたそれに釣られてわたしたちも浮足立ってしまうこれじゃまるで自分というものが無いではないか―よしっ今年の年末年始は世間に惑わされずしっかりやるべきことをやるぞ―ととっくに世間から見放された老人が一人無人島でほざいているようです中継終わります次どうぞ