ペン・スケッチ

人形」 ペン・クロッキー(3分)

ここ1年以上動画を製作することにかなり力を注いできたその分相対的に絵を描く時間が激減した。1日10時間も編集に時間をかければ実際の絵を描く時間などほとんどなくなってしまうスケッチ動画の場合本来なら5分くらいで済むスケッチに説明用として1時間も描き続けたりするだから常に描き過ぎてしまい動画としてはまとまっても自分本来のスケッチではなくなってしまう理想はありのままの「自分流」スケッチを表現することだからそこからずっと遠いことをやっている感じがぬぐえない

「青いカモメの絵画教室」と名付けたYouTubeのチャンネルは「概要」に書いた通り「初心者が自分なりの絵を描けるようになるための参考」として動画を掲載しているけれど正直に言うと(わたしのものだけでなくほぼすべての)ビデオをいくら熱心に見ても(ビデオのように)描けるようにはならないそうだとすれば誰のためにもならないビデオ製作に膨大な時間を浪費している感覚になるのも仕方がない

上のペン・クロッキーは3~5分くらいで描いている。maar、実際はわたしは5歳くらいからずっと絵を描いてきたから、65年+3分と計算するのが正しいのである初心者だって子どもの頃はお絵描きしただろうがその分を算入しても65年にはならないだろう。65年の間にわたしが描いた線の本数の積み重ねが、3分のクロッキーを描かせているのである

「じゃあ遅く始めた人はもう絶望的じゃないか」と思いたくなるがそうでもない確かにわたしより「上手く」描こうとするとそうなるかもしれない。Echter、「自分なりの絵」「個性的な絵」には必ずしもそういう「鍛錬」は不可欠な要素ではないというよりそのような鍛錬をすればむしろわたしと同じような絵になってしまう可能性の方が大きいそんなことはやめたほうがいい。maar、ビデオを見ただけではもちろん描けるようにはなれないやっぱり手を動かして眼と手と頭が一つの感覚になるまで経験を積み重ねる以外に「自分なり」も「個性的」もヘッタクレも無いと思うビデオを見るときは「こんなことしなくてももう少し自分らしい絵が描けるんじゃないか?」と考えながら見てほしいそして「こいつ苦しんでいやがる」「自分はもっと楽しく描こう」と思いながら描いて欲しいのであるそれでわたしのビデオも報われる

考えてみれば当たり前か

Apple-田園 2022.8

腰痛で5年以上医療機関にかかっている。30年とか40年も通っているよなんていう人がザラにいるのにも驚くがそういう人が「元気に」通っているのにはさらに驚く一見すると「通う必要ある?」って感じに見えるんだ

「元気な人でなければ病院なんかには通えないよ」というブラックジョークはジョークどころか現実そのもの「日本(老)人の新常識」なのだとこの数年間でわたしにもよく解った

ずっと通っていた大学病院は教授間の争いがあったらしく(無関係なわたしになぜか医師がよく愚痴っていた)そのとばっちりで負けた教授組?の患者全員が病院から放り出されてしまったらしい(ひどい話)紹介された「(医師にとっての)新しい勤務場所」はわたしにはとても不便皆さんも「あるある」でしょう?まさにそれ

今年の8月はわたしにとってはまさに「腰痛月間」だったが腰痛も永久に続くわけではない薬飲んでも湿布貼ってもダメな時はダメだが安静にすれば薬などに頼らなくても徐々に治まっていく一種のバイオリズム鎮静してやっと病院に行けるようになるからその時点ですでに気分はハイになっているというのが5年間の経験です。Met andere woorden、「元気になったから病院へ行こう」そして待たされているうちに知り合いができたりもする救急車で担ぎ込まれる容体でもない限り病院が元気印の社交場のようになっているのも考えてみれば当たり前か

芸術は何を与えているのか

ポットの花 (水彩)

かつて世界選手権やオリンピックの代表だった某スポーツ・コメンテーターが最近こんなことを言っていた「スポーツ界がスポーツをやらない人の税金まで使って社会に何を還元できるのかそれを考えないと国民がスポーツから離れて行ってしまう」

心情を理解できなくはないがちょっと危ないなと感じるのは「税金を使うのだから何かを返さないと(いけない)」というギブアンドテイクに似た部分この部分は最近の日本ではむしろ多くの人に共感されそうだが少し深く考えれば「返せない(と思われる)人には使わせない」という社会的弱者の排除につながりかねず子どもの教育にも「将来国に返せよ」という国家主義的な義務感を植え付けかねないと思うもちろん本人は直接そんなことは言っていないがそう解釈されそうな論理を孕んでいるこの「返し」が「かたちあるもの」になってくると「(金)メダルでないと意味がない」などという発言になってしまう

そんな考え方をしてしまうと「では芸術は何を返すのか」ということになりかつてのロシアや現代の北朝鮮のような「国家に奉仕する」プロパガンダ絵画になる「芸術は社会のカナリアだ」という人々がいる確かむかし炭鉱夫が坑内へ入るとき酸欠状態かどうかを知るためにカナリアを先に入れたということが言葉の起源だったと記憶しているスポーツや芸術を認める社会がとりあえずは「安全」だというバロメーターとしてだけでもすでに充分意味のあることだ

世は健康志向だ。Echter、三流映画に出てくるようなただただ殺戮するだけのロボット的な軍人ならともかく運動と栄養だけで人間は健康になれるわけではない精神的な愉しみ安らぎが必要だ心の栄養も不可欠だということ人間らしさという意味では芸術は最も社会還元の大きな分野だとわたしはいつも思っているが同時にそれがこの社会の常識であり続けることを心から祈ってもいる