画材・技法のスキルについて

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ここでの画材というのは油絵具水彩絵の具とかキャンバスといった描画材料のことYouTubeなどを見ると「いかにもプロ」的な高度なテクニックを駆使した作例がいくらでも出てくるそれを見て一生懸命勉強している人もたくさんいるだろうと想像するわたし自身もその一人である

画材や技法などについての知識が増し使いこなせるようになれば確かに表現の自由度は増し人目を惹くポイントも作れるようになるコンクールなどは審査員自身がプロの表現者だからつい高い技術レベルを求める方向になりがちでそうした中で選ばれた作品を通じて観衆の意識も審査員たちの美意識に追随していくもちろん展覧会の大きな意義として「啓蒙」の機能があるのだからそれで良いわけではある

maar、プロになろうとする人は別として絵を楽しみたいと考える人は画材や技法についてあまり専門的にならない方が良いという考えがどうもわたしの心の中で広がりつつあるようだ知識技術の向上が悪いはずはないけれど、、それもひとつの見方方向性であってそれとは違うものの見方もあるよね?と一つの画材一つの技法のエキスパートになるには相当の努力が要るその過程でたんに知識技術だけでない何かを体得することが少なくないことも知っているそれでも、、、、せっかく学んだ知識技能が一方で自分を限定する力想像力を硬化させてしまう力として時にはマイナスにも働くこともあるということをちょこっと頭の隅に置いておく方がいいかもと思うのである

絵を楽しむためには少し下手な方がいいなどとうそぶきつつわたしは絵画のテクニックを人に教えもっと上手くなるようにアドバイスもする。Echter、必ずしも矛盾とも思わないなぜかというと絵を描くにも最小限の知識使いこなしができないとそれ以上の経験ができにくいからである海外で一人旅をすると多くの経験を得るがそれには最低限の知識や語学力が必要なのと同じであるだからといって旅行の引率者や語学の専門家になるレベルまで勉強することとは別の話だということ

でもまあ専門家になればなったでもっと高い(深い)愉しみというものもあるには違いないから下手な方が楽しめるなどと言うのはできない人(わたし)の負け惜しみの理屈なのかもね

Apple in landscape(風景の中)

風景の中の Apple (アイデア)

目覚め前ココシュカのポスターの夢を見た。2019年5月の「ウィーン・モダニズム」展を大阪の植松君と一緒に見たときの絵の夢だもうすっかり忘れていたのに何の前触れもなくすっと夢の中に現れた記憶が薄れないうちにととりあえず描きかけの100号のキャンバスに「バーチャル加筆」してみた(もちろんココシュカのポスターの格調はずっと高い)

ここ1週間ほど制作にあたって足踏み状態だった・・・方向は決まっている―描き方もほぼ決まっている―「でも具体的なイメージが湧いてこない」―イライラしながら別の小さな絵を描いたりアトリエの細々した片付けや作業をしながらずっと考え続けていたが・・・何も湧いてこず少し焦り始めていた

オスカー・ココシュカは20世紀たぶん「表現主義の画家」とされているだろうオーストリアに生まれ(最終の国籍は英国スイスにて没クリムトやシーレなどとともに「ウィーン分離派」の運動にも参加し目覚ましい発表をしている(年譜から初めて知ったがバウハウスでも教鞭を取ったことがあるらしい)けれど結局はグループに与せず自分ひとりの世界を歩んだ人である
 正直に言うと彼の絵は今もわたしにはよく解らず決して好きなわけでもないそれでもなぜか作品の「重さ」のようなものがずっとわたしを離さなかった―それから3年経った今朝になって忽然とそれが夢枕に立ち上がるなんて―夢の啓示を忘れないようすぐ二階に跳び上がって展覧会の図録を捜索した

夢の中で「これだよ!」と叫んだような気がする時計を見ると6時前寝たのは1時半頃だから睡眠学的にはある種の「神がかりの時間帯」らしい「神(がいるならば)がアイデアをプレゼンしてくれたこれを活かさなければ文字通り罰が当たる」と思いながら寝具を跳ね除けたのだった

Apple in Green

Apple in Green (エスキース2)

昨日のエスキース背景が赤で力強い感じを表現してみたが今日は一転して「グリーン」第三者目線で眺めてみると「Appleのふるさと」感みたいでちょっともろもろの対象物(オブジェ)が説明的過ぎると思えてきた

今回のエスキースで考えていることは
①色は平面的に塗るタッチ(筆触)はあってもよい
②線(時には輪郭線)と色をずらすこと塗り絵にしない
③線はラフで乱れていることを良しとする
④視点を一方向に限定しない見上げたり見下ろしたりを“勝手に”やる

その結果絵を見た人がどう感じるかを予想してみると
①「ちゃんと描けない人だ」=「ヘタクソだ」と思う
②「こんなの子どもでも描ける」と思う
③色はきれいだが「芸術的な深みがない」と感じる
④難しいことは何も描いてないので気楽と言えば気楽

若干肯定的なのは④くらいでたいていは「芸術的な有難味が無い」要するに「ダメな絵」をわざわざ描いているってことになるだろうか先日までのCGスケッチにせよ写真的な描写の練習にあんなに時間をかけてきたのは何のためだったの?(このブログを初めて見る人は、2021末頃~1,2週前くらいまでササっと見て頂けると有難いですすんません)と思う人多いと思う(実はわたし自身もそんなこと感じながらいつも描いている)

今の段階で答えられることは
①「思わせぶり」「考えている風」な絵は描かないことにしたい
②「芸術」よりも「造形」を重視
③単純にきれいな色は気持ちがいい→アタマ空っぽになる
くらいでしょうか。20年前ならこれはすべて逆でしたつまりわたしの「絵画観・芸術観」は180度変わったってことですきっと「あたま大丈夫?」って感じでしょうね?