大きな木

    「林」  水彩

木が面白いので描いてみた枝はもっと高い所から出ていてこのサイズではぎりぎり画面に入るかどうかだがそれだとまるで山羊の脚か何かのように見えそうなので枝の位置を下げ本数も増やしてみた

木陰にアジサイが咲いている風だが実は何にもない素通しの風景が広がっていた背景をアジサイで塞ぐことにした。Hoog、大きな木である腰が悪くなって反り返ることが苦しく梢を見上げることもなくなった梢を渡る風の音を聴くのが心地よい

堤防の上は微風

江戸川は江戸時代に利根川本流を銚子(千葉県)方面に向ける際に開削された半人工水路である
堤防の上は芥子菜が溢れている以前はもっと背が高く壁の中を通る感じだった
関宿城

昨日(日曜日)は天気がよかったので近くの公園までスケッチの下見に出かけた久しぶりに江戸川も覗いてみようとちょっと自転車を漕いでみた

いわゆるスーパー堤防の上は微風下流には春日部や野田の方まで見えるやや曇り気味の晴だから日差しもそれほどではないおまけに珍しく帽子サングラスもあるちょっと首を伸ばせは関宿城が見える
 ついでのついでというわけで目的地ではない気楽さからかわりと簡単に着いてしまった(公園から片道3.3㎞自宅からだと9㎞ちょっと)家族連れなど意外にたくさんの人がいた

桜を描くのは難しい

       「桜のある風景」 水彩

桜に対する日本人の “熱愛” は “超” 特別だその一種の「異常性」が普通の日本人(わたしも含め)には正常と感じられているという異常性の出発点は「小学校の桜」にあるのではないかと多くの人が述べている通りだと思うわたしの知る限りでも校庭に桜が無いという学校を見たことがない現実空間には存在しない「デジタル小学校」のようなものがあったとしてもきっと画面のどこかに桜が入っているに違いないとさえ思う
 さらに花のタイミング幼少期の大きなイベントは多く学校に関わることが多いその中でも入学卒業は特別な意味を子どもにも感じさせるその背景にいつも桜がある東日本大震災は3月だった震災直後の満開の桜はその清々しさゆえに喜びよりもむしろたくさんの日本人の涙を誘ったものだった桜は単に花であるだけでなく深い心情を伴った象徴でもあるそのことがモノとして桜を描くことをさらに難しくする

そういう意味でほぼ100%に近い人が一度は桜を描いた(描かされた)記憶がありそうだそしてその90%以上の人が(ピンクをただ塗りたくる以外に)どう描いたらいいか悩んだ経験を持っているに違いないわたしも小学生の頃に感じたそのコンプレックスがずっと尾を引いて今も解消できずにいるそのうえ風景としてはあまりにも普通過ぎて新たな視点を見出しにくい桜への熱愛に比して公募展などでは桜の絵がむしろ少なめなのはきっとそういう理由だろうと思う