反省を吹く

Autumn trumpet 水彩

「反省」をする時期になってきた嫌だなあ。12月が近くなってくると一年の反省を強いられる気分になって帳尻合わせのためについ頑張ろうとしてしまうそして当然のようにその結果はたいていろくなことにならない

そもそも1ヶ月でつじつまがあうくらいなら他の11カ月は何をやっているんだということになる悪い商習慣が巷を混乱させているともいえるのだがすでにそれが身体に染みこんでいてじっとしていると尻がこそばゆくなってしまう嫌だなあ

13月というのがあれば、12月はずっと気楽になるそういう意味なのかひところ「13月」という語が詩や詞のなかで使われた時代があるあるいは12月と1月のあいだの空白感を詩的に謳ったものだったのか。във всеки случай、当時はなんとなく別空間ロマンチック感が漂ったものだったが今はほぼ見当たらないのが時代の変化ということなのだろう

1月はどうだろう逆にポカーンと冬空に一辺の白い雲みたいな気分や新しさでキラキラした気分を醸し出そうとマスコミも躍起になるそしてこれまたそれに釣られてわたしたちも浮足立ってしまうこれじゃまるで自分というものが無いではないか―よしっ今年の年末年始は世間に惑わされずしっかりやるべきことをやるぞ―ととっくに世間から見放された老人が一人無人島でほざいているようです中継終わります次どうぞ

サービス

                アリスの秋(水彩) ※11/06に制作中の絵があります

サービスといえば提供する・奉仕するという類の意味でその対象はたいてい他人に対してアトランタ五輪・マラソン銀の有森裕子選手の「自分で自分を褒めてあげたい」は名言だがそれは逆説的にそれだけ自分に厳しくしたという意味だから自分へのサービスということにはならない

「情けは人の為ならず」これを他人への同情は禁物という真逆に解釈する人がたまにいるらしいがもともと「人に情けをかけなさい」という意味で他人にかけた(つもりの)情けは結局自分自身にかけたものなんですよ、Това означава。やや世知辛くもあるが流行語にもなった「おもてなし」の拝金主義を裏返したような言い方よりこちらの方がずっとサービスの精神に近い

ちょっと脱線したが最近になって「世の中・社会=サービス」だということを感じ始めた(あまりにも遅すぎる?)。обаче、サービス=相応の対価という意味だけではないもう少し広く精神的なもの(無意識的なものまで含めて)まで含めたい西欧社会ではギブアンドテイクが徹底しているらしいがまずギブ=サービスをテイクより先にすることが重要であるケチな人が嫌われるのはそういう思想が底辺にあるからに違いない人に目を向けること(冷たい目でさえも)=サービス人と(できるだけ)争わないことそれもサービスモノや好意とは限らない

サービスがあればそれを受け入れることも一つのサービスであり得るだから「わがまま」は時にはサービスの拒絶サービス精神の欠如ということになろうかじぶんではサービスだと思うことも時には押しつけになりかねないなかなか難しいものだなあと思うことが多くなってきた

発想の転換とはいうけれど

秋のトランペット(水彩 F6)

「発想の転換をしなくっちゃ」と人に言われるまでもなく意識し続けてきたつもりだがもう開き直りこそ発想の(再)転換かもしれないとさえ思う昨今。Но、ちょっと深く考えてみるとまずやってみてその経験から学ぶという地道な方法しかないように思えてくる

「やってみる」という単純なことが歳をとるとできなくなってくるそれまでの経験から「きっとこう(なる)だろう」が始める意欲を押しとどめてしまうとはよく言われることたぶんそうなのだろうが一番の理由は「あえて」やらなくても困らないことではないかと思う。С други думи、わざわざリスクを犯す必要を感じないということ

いくら歳をとったって好きなことは理由がなくてもやるにきまっているし必要不可欠となれば嫌なことでもやるのである。Но、「やらなくても困らない」程度のことならあえてめんどうなことに手を出す必要はない若い人は好奇心から「必要は感じないけど(人がやるなら自分も)やってみる」客観視か主観視かの違いがあるかもしれない

自分のことを考えてみると他人が案外簡単そうにやっていることでも未体験の自分にとっては意外に手こずることが少なくなかったそれらの小さなトラウマが先に立ってつい怖気が先に来るようになってしまっているでも始めて見ると時間が経つにつれて少しずつ回りが見えはじめ足場も手がかりもだんだんに解ってくる(気がする)・・・いやいや回りくどい。Накратко、単純に若い人のように好奇心を持つこと「それ面白そう」というのを見つけるということなんだろうね