取り立てて「ここが良い!」と強調するようなところがないのがいいのかもしれない。「穏やかな日常」の表現に適当な場所、Is dóigh liom go gciallaíonn sé sin。世界は至るところ戦火がひろがっているし、日本の中も災害やSNSなどを使った詐欺事件などで気持ちが落ち着かない。「絵になる場所」、と思った時から10年は経ったかもしれない今になってこういう風景を描くのも、あながち年のせいとばかりも言えない気がする。
市営の釣り堀では小学生がデビューしたらしく、まわりに常連の爺さん、婆さんが集まった真ん中でヘラブナの竿を下げている。珍しいこと。長閑なものだ。足元にはホトケノザがだいぶ前から(ホトケノザを真近にみると、結構変わったかたちの花です。Chomh maith leis sin、その名の由来も納得できますよ)咲いている。最近は青く可憐なオオイヌノフグリ、ハコベが増えてきた。ベニシジミはもうとっくに見たが、今日はモンシロチョウも飛んでいた。春だなあ。桜はまだかいな。
Is é、わたしたちの棲む家々からほんのわずかの距離のところにあり、いやむしろ家々のあいだにあり、多くの人々が足繫く通う場所の中にもある。そして誰にも簡単に見分けがつくにも拘らず、多くの人はそれに気づかないふりをしているらしい。そこでは人は既に立ってなどいない。ほぼ全員が仰向けに横たわり、静かに息をしている。日に何度か起き上がっては、どこからか運ばれてくる飯をそそくさと食い、食ってはすぐまた仰向けに横たわる。そこは気づかぬほどゆっくりと動くベルトコンベヤーになっていて、何日か何週間か何か月後にはもう誰の手も届かない、引き返すことのできない「あの世」への動脈になっている。