「人間は」と言葉にしたとたんに、目の前の人間から、するりと具体的な事実の集積が消え、一枚の紙のように薄っぺらい、ただの「情報」になる。
「一枚の紙のように」、と書いたところで、キーボードを打つ指を宙に止めた―一枚の紙もまた立体・物体であり、材質も重量もあることを忘れてはいないか?と。「事実の集積」って、具体的な何かなのか?とも考え始めた。
「Art=Fine art(純粋芸術)」、という用語法は、日本語、英語ともに、じつは極めて現代的な用語らしい。Art という語はもともと、技巧・技術=techniqueのこと。特別な技術=アートであり、それは○○職人とか、具体的なモノと硬く結びついているのが自然だった。腹が減ったから何かを食うということは、「食欲」という言葉がない時代では、それは直接的に「食うという行為」以外では「表現できなかった」。「食欲」という「語の発明」が、その感覚を共有するためにはどうしても必要だったのである。
現代人は視覚と言語(言葉)≒情報(TVニュースやYouTubeを見よ、)で判断するが、逆にいえば言葉を介さない、モノとの直接対峙から一歩遠ざかることで、ナマの事象を見聞きせずに済む、いわば「心の安寧」を貪って(むさぼって)きたとも言える。ところが20世紀近くになって、「『芸術という新しい言葉』を発明して」芸術は「情報≒常識に慣れかけていた現代人」に対してクーデターをしたのである。「食欲」という抽象的な言葉を追い払い、再び「食うという行為」のもつ、ナマのインパクトが武器として使えることに気がついたのだった。芸術は時として反時代的であり、時として時代錯誤であり、時として懐古的だったりする。
芸術家は繊細な役者であるだけでなく、巧妙な演出家でもある。幾度かの失敗を繰り返しながら、現代人の心の空白にナマのインパクトを与えながら、同時に「オマエノココロはガラスノヨウダ。モット自然でイインダヨ」と優しく耳元で囁いた。
効果てきめん。いや、効きすぎたのだった。現代人は「芸術はホントウのようだけど、ちょっとコワイかも」と思ってしまったのだった。そういうコンセプトだから、現代の芸術はワイルドであるほどgood。Maar、芸術はいまや「文化」という、ぼてっとした厚手の衣類に自由を奪われかかっている。そしてそこに安住しかかっている。「文化」を脱ぎ捨てれば弱肉強食の凄まじい世界がすぐ目の前にある。穏やかな笑顔を浮かべながら、自分でもよく知りもしないそんな世界を「実はこうなんですよ」と暗示してみせる「モノの衝撃」。Maar、実際、深く見れば見るほどモノは語り始めるのも確かだ。時にはそれを置いた芸術家そのものより深く。さすがに芸術家の嗅覚は鋭い。