
dènyèman、Mwen pa ka fè yon foto ankò jis nan panse sou li.。Nan tan lontan, mwen ta jis aplike penti ak foto yo ta soti poukont yo.。jiskaske yon bagay vin parèt、Ranpli li、Lè penti a vin epè, ou ka bezwen grate li.、Lave l、ap tann jiskaske yon bagay soti。Pafwa li pran tan、次々とイメージ浮かび、キャンバスの数が足りなくなることもある。
突然、画面に人物や風景や静物などの断片がヒョイと見えてくる。それをつかまえて描き始めるから、ゴールのイメージなどあらかじめ想定できない。モノがすっかり姿を現すと、そこで初めて「このあとどうしようか」と、ゴールのことを考える。場合によっては出現した人物に小さくなってもらったり、右や左に移動してもらわなければならない。とにかく、何を描くのか自分でもわからない、そういうめちゃくちゃな描き方だが、聞いてみるとそういうタイプの人は案外いる。30年くらいはそうやって描いてきた。
高名な画家の死後、遺されたスケッチやデッサンなどを示しながら「こんなに努力していたのです」的な解説を今でも見かける。それはそれでいいのだが、「そういう努力をしないのはダメだ」的な「教訓」とすることには異議がある。運慶とミケランジェロがたまたま同じことを言っている。「木(石)の中にすでに彫刻が埋まっている。わたしはそれを掘り出すだけだ」。それを読んだとき、わたしも全く同じ感覚を持っていたことに驚いた。絵の具を塗りたくるとき、塗るというより絵の具で表面を掘り、削っている感覚だった。
いまはそういう描き方はしていない、というより出来なくなった。最初に「○○を描こう」と思う。そしてその中の3つほどの要素に優先順位をつける。1はこれが無いとその絵に意味がなくなるというほど重要なもの、3はなくてもいいが、あるとふくらみがあるかな、という現実的な「欲」。2はその中間。Se poutèt sa、下描きもするしエスキースもする。かつてはそういうものは全くしなかったから、ほぼ別人になった感じがする。Men、エスキース通りにできた絵は「死んだ絵」になってしまう。ひらめきというか、思いつきというか、それが無いと、絵の心臓が動き出さない。それが降りてくる瞬間を待つのは今も変わらない。