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コロナが照らしているもの

権現堂桜堤 2020年3月21日(土)午後3時とても静かな花見

3月18日(水)に引き続き権現堂桜堤に行ってみた4日前はほとんど咲いていなかったが蕾は膨らんでいて土日に暖かくなれば開花すると思っていた今日はほとんどの木で開花していたが全体としてはまだ1〜2分咲きというところ現在の自粛ムード中としては思っていた以上の人出だったがそれでも例年に比べるとずっと少ないそのぶんゆっくり観られるし屋台ごとに異なる音楽をガンガンかけたりの騒音や目障りな提灯もないので桜を見るだけなら例年よりずっと心地良い

静かさといえば大相撲春場所相撲はいつもラジオで聴くだけだがコロナ禍のため無観客開催となっているせいで力士どうしのぶつかる音や激しい息遣いだけでなく仕切のたびに足で砂をならす音まで聞こえてくる相撲協会としては興行収入が入らないのでがっかりだろうがラジオファンとしてはいつもの場所より満足度はずっと高い選抜高校野球は中止になったがもし無観客で開催していたらきっとこちらもラジオの野球ファンを喜ばせていたことだろう

おそらくこのコロナ・ウィルス禍を契機に日本(人)の働き方は変わるに違いない政府が音頭をとって小手先の働き方改革など主導するより迅速に実効性を持って変化する自粛期間が長くなれば廃業する中小企業は増え失業者は溢れるだろうがそれももしかしたらどんどん老化衰退するばかりのように見える日本を一気にシャッフルし若返りを図れるチャンスになるのかもしれないとも思う働き方が変われば考え方も変わるそこに少し希望はあるしかしそれまで耐えられるかどうかは判らない

考えてみると(とくに北部)イタリアなどでは外出自体が禁止されている地域によっては生活必需品の買い物にさえ理由書のようなものを携帯しなければならないというそんな人々が感染源の一国とされ国内感染者も増加している日本で花見などしている風景を見たら「人の痛みが分からないのか」と非難する人がいてもおかしくないそのような感情は政府や経済界の方々には理解できないらしくいまだにオリンピック7月開催に固執しているおそらく実現できないだろうが仮にやったとしても「人の痛みに共感できない」国が自分たちの「お金のためメダルのために」他国の「選手を犠牲にした」最悪のオリンピックだったと歴史に名を残すだけだろう権現堂では桜の下で宴会している人はさすがにいなかったでもオリンピックの旗の下で宴会する人々はきっといるだろうと思う

皿洗い

「Apple」  2020 Alquid

皿洗いしながらいろんなことを考えるじっと座って考えるより皿洗いしながらの方がなぜかいい考えが浮かぶ散歩しながらの方がアイデアが浮かびやすいと書いてあるのをよく読むが私の場合だと目についたものからすぐ連想が広がってしまい考えることには向かないようだ

考えることの中身はほとんどの場合これから描こうとする絵のことだから朝食のあとの皿洗いが一番重要だだからといってボーッとして皿を落として割ってしまうなんてことはない鍋やフライパンも汚れが残ってないかシンクの底や縁にソースやキャベツの切れ端がくっついていないかもちゃんと点検する昨日より今日のほうがきれいになっているのが理想だと心の中では思っているそうしながら頭の別のところで今日これから描く絵を描いてみるシミュレーションするのである

実際に描くと絵の具の滑らかさ具合や偶然できた色ムラなどに気を取られてしまうがシミュレーションではまるで他人が描くのを見ているように冷静だそして途中で「あれっ?ここおかしいぞ」という場面で停止するほとんど録画再生の感覚頭の中の映像を何度も再生して気になる部分の原因と解決法を考える

洗い物はほんの少しだから(特に朝は)長くても30分普通は15分ほどで終わるたいていその間に目先の解決法はできあがる大したことは考えられないし一回分しかないそれでも実際にキャンバスの前に立つ前のこのシミュレーションはとても有効だ皿洗いは私に課せられているわけではないじっと座ったり立ちっぱなしだったりするので頭のリフレッシュと腰の血流のために勝手にやるようになっただけ皿洗いと絵画の新しい関係である

「不作為」の評価

「青い壺とリンゴ」 2020 水彩

「不作為」とは「敢えてやらないこと」積極的な意味がある似たような語に「無作為」というのがあるがこちらは「何も考えずに」という意味で「偶然に」に近い多くの場合評価というのは「結果」に対してなされるものだから「やらない」ことを評価するのはその方法も含め案外難しいだろうと想像される

多くの場合評価には段階がある学生時代の成績評価などはその典型例数字で表せない事例でも積極性協調性「明るい性格(!)」などには「高」評価がつき何事も一人でやろうとするタイプには協調性が無いとか独善的などの「マイナス」評価がつきやすい「引きこもり」=「悪」=「何とか社会に引っ張り出そう」という考え方もこのような評価から来ているようにも思う外に出て人と協働しないとダメなんていわれたら芸術など成り立たないし引きこもったままでも生きていける社会になった方がいい

「積極性」って何だろうかあるプロジェクトが企画されたとする賛成・推進派と反対もしくは熟考派の3つ位には最低でも意見が分かれるだろうこの時プロジェクトを企画した方から見れば賛成派=積極的ほかの2グループは消極的と評価される可能性が大きい反対する人は「敵対勢力」と見做されることだってありうる「協調性」って何だろうか嫌々でもリーダーに従っていれば「協調性が無い」という評価はされないと思う逆に積極的にそのプロジェクトを理解しその長短を考慮した上での反対であっても少なくとも協調性を高く評価されることは(少なくとも私の知りうる範囲内では)稀有

かなり荒っぽい論理になってしまうが評価する側(の姿勢)に評価基準が偏りがちだということが「不作為」の評価を難しくしている(ある意味自然とも言えるが)日本の社会は「提案・推進」=「建設的」と短絡的に捉えたがる精神風土を持っているしかもその提案自体上意下達的な場合が多いように見える提案に対する反対の場合でも「反対するなら対案を出せ」という言い方をよく聞くがこれも提案=建設的という固定した考え方をよく示しているそろそろ「AでなければBかC」ではなく「Aそのものをしない」という不作為の評価とその方法を考える時代になってきているのではないだろうか