kafe goizean

Gaur goizean ere kafe goxoa egin dut.

Badirudi "kafea" ondo saltzen ari dela, ez berehalako kafea.、babarrunak eta irina。Koronabirusa mundua mugatzen hasi zenetik。jendea kalera ateratzeari utzi zion、Horrek esan nahi al du azkenean denbora berreskuratzen hasi naizela?。

Munduko ekonomia geldirik dago、Hala ere, badirudi ez denik.。noski、Nola egin nuen lan orain arte、Negozio-praktiketan beherakada nabarmena duten enpresak、Industria batzuk egon daitezke、kafe hau bezala、Pertsonekin inplikazio handiagoa duten industriak aurrekaririk gabeko irabaziak lortzen ari direla dirudi.。Herrialde garatua? barruan、Japoniatik kanpo, laua mantenduko da edo are negozio formatua aldatuko da koronabirusaren ondorioz.、Egitura ekonomikoaren aldaketak ziklo ekonomiko positiboa sortzen ari direla ere entzuten dut.。

経済評論家でもないのにこんなこと書いても仕方ない―コーヒーを淹れ始めるようになって1年近くやっと「コーヒーの味」が判るようになってきたような気がするそれまではインスタントコーヒーのがぶ飲みでそれでも「まあコーヒーってこんな味だよ」と思っていたが今からみるとそれらはまったく「経験智」にならなかったのだった

お茶も同じことだろう味の分かる人は美味しいお茶を飲みこんなもんだと水代わりに飲む人にはそれなりにしか判らない考えてみればコーヒーやお茶に限らずすべてのことにそれは言えるのではないだろうか一杯のコーヒーはわたしに平穏と静かな積極性を与えてくれるようになった―ウクライナで戦う両国の兵士たち逃げ惑う市民たち一刻も早く彼らにも深い一杯のコーヒーをゆっくり味わえる日が来ることを心から願う

Apple in landscape(風景の中)

風景の中の Apple (アイデア)

目覚め前ココシュカのポスターの夢を見た。2019年5月の「ウィーン・モダニズム」展を大阪の植松君と一緒に見たときの絵の夢だもうすっかり忘れていたのに何の前触れもなくすっと夢の中に現れた記憶が薄れないうちにととりあえず描きかけの100号のキャンバスに「バーチャル加筆」してみた(もちろんココシュカのポスターの格調はずっと高い)

ここ1週間ほど制作にあたって足踏み状態だった・・・方向は決まっている―描き方もほぼ決まっている―「でも具体的なイメージが湧いてこない」―イライラしながら別の小さな絵を描いたりアトリエの細々した片付けや作業をしながらずっと考え続けていたが・・・何も湧いてこず少し焦り始めていた

オスカー・ココシュカは20世紀たぶん「表現主義の画家」とされているだろうオーストリアに生まれ(最終の国籍は英国スイスにて没クリムトやシーレなどとともに「ウィーン分離派」の運動にも参加し目覚ましい発表をしている(年譜から初めて知ったがバウハウスでも教鞭を取ったことがあるらしい)けれど結局はグループに与せず自分ひとりの世界を歩んだ人である
 正直に言うと彼の絵は今もわたしにはよく解らず決して好きなわけでもないそれでもなぜか作品の「重さ」のようなものがずっとわたしを離さなかった―それから3年経った今朝になって忽然とそれが夢枕に立ち上がるなんて―夢の啓示を忘れないようすぐ二階に跳び上がって展覧会の図録を捜索した

amets batean、「これだよ!」と叫んだような気がする時計を見ると6時前寝たのは1時半頃だから睡眠学的にはある種の「神がかりの時間帯」らしい「神(がいるならば)がアイデアをプレゼンしてくれたこれを活かさなければ文字通り罰が当たる」と思いながら寝具を跳ね除けたのだった

スポーツに「参加する」

アロエ

冬季オリンピック北京大会が終わったネットで女子のカーリングのライブを見ながらスポーツの新しい流れを見たような気がした競技の中に視聴者が「参加しているかのような」感覚を持たせる「疑似(あるいは視覚)参加型」ゲームがこれからのスポーツの主流になるだろうと感じたからだ
 スピードスケートやフィギュアなどでは応援はできても「参加」意識など経験者以外には絶対に持ちえない(たぶん)

画面に映るストーンの配置を見ながら「こうすればこうなるのでは」と自分なりの作戦を描き選手が実際に放つコースや早さに「あ~!」とか「ナイッシュー!」などと声を上げた人も少なからずいたに違いないと思わずこちらの口元もゆるむ

カーリングは「氷上のチェス」などとも呼ばれているらしいそんな言い方から、Begirada、将棋や囲碁の世界と通じるように感じる人もいるかもしれないがそうではないやはりスキーのジャンプ競技や陸上競技の円盤投げやハンマー投げなどと同じような物理的要素「質量速度(温度)摩擦力」の組み合わせ方をどう読みそれを自分の技術・体力とどう関連付けて使うかという現在のスポーツの本質にしっかり繋がっている競技なのである、Uste dut。「物理」は誰にとっても常に明らかな現象であるだからこそど素人のわたしなどにもある程度の想像が可能になるのであり(これからパラリンピックが始まるが)その想像的参加が「身体の稼働領域」を越えてゲームへの参加(意識)につながるのではないか、Uste dut。

その意味でわたしなりに言い換えれば「氷上のビリヤード」の方が「チェス」よりはるかにカーリングのような「物理」的現実に近い。Horregatik、これは将棋よりもっと手軽にゲームにもe-sports になり得るたぶんもうなっているだろう「参加型」と言ったが「*参加することに意義がある」と言ったクーベルタン男爵のおそらく彼の予想もしなかった新しいかたちでその理想がやっとこれから少しずつ実現されていくのではないか、Nik ere pentsatu nuen。

*(この言葉の内容にはさまざまな意味・解釈があるらしいここでは訳語の字面通りに解釈しておく)