narrazioa

眼鏡とアケビ

ナレーションとは動画に沿ってその内容を説明したり映像に心理的な奥行きを与えるための「語り」のこと実際に動画を作るときは他にも「字幕」という選択肢もあるし強調したいなら同時に使ってもいい何かを解説する動画ならナレーションも字幕もなしに内容が解るのが一つの理想だろうと最初は思っていた

Baina、不特定多数の一般の人に向けての動画からナレーションや字幕を無くすのは無理そうだ。lehenik、声が無いと眠くなってしまうある程度ボリュームの必要な動画ならたとえ見るだけでわかる動画でも適当なタイミングでアクセントをつけないと飽きてしまうそれにたとえばわたしの「水彩画を描く動画」からナレーションを無くしても自分でも描いている人には解るがほとんど描いたことがない人には「ここが大事です」というポイントを示さないと気づかれないうちにスルーしてしまうそういう人にとっては解りやすい説明を入れることが親切というものだとわたし自身が見る立場でそう思う

それに「見栄え」「聴き映え」というものもあるその人の声を聴くだけで癒されたり元気が出たり世界が広がるような気持にしてくれる「声」というものが確かにあるそれがナレーションの力―と言ってもわたしにはそのような才能はないから適切なナレーションのことだけを考える。Baina、ご想像通りこれがとても難しい「水彩画…」でも筆の動きを言うのか色のことを言うべきか全体の流れの中で言う方がいいのかあれこれ考えているうちに場面はどんどん移っていくたくさん言葉を入れれば画面はダラダラと長くなる逆に時にはもう少し説明したい文案があるのにすでに場面をカットスペースがなくなっていることもある(素人ゆえ)

Gainera,、何度も言い間違い読み間違うそのたびに録音し直し言いにくいときは読みやすく文面を修正しなければならない雑音も入る自分でも気づかないうちに救急車のパーポーが入っていたこともある(防音室がないので)ビデオ編集を仕事にしているわけではないから一気にやれる時間は限られている日時をあらためると声の調子がすっかり別人になっていることもある常に声質の安定しているアナウンサーはさすがにプロだとあらためて感じる多くの動画では撮影と同時進行でスラスラと喋っているがそれはわたしには難しい。20分程度のビデオのナレーションだけで数日かかることはわたしの場合珍しくない―その間に一枚でも実際の水彩画でも描けば?と心のナレーションが聞こえてくるとなおさらストレスが増す

ゼレンスキー大統領

ドライフラワー  ペン、akuarela

ウクライナへのロシア軍侵攻には多くの人が心を痛めているに違いない(その逆も半数は居ると考えるのが「世界の常識」らしいが)その中で黒海沿いの主要港湾都市マリウポリにあるアゾフスターリ鉄鋼団地に圧倒的な戦力のロシア軍に対して立てこもるアゾフ大隊・ウクライナ軍が昨(5/16)夜「任務を終了」し傷病兵を含めロシア側地域にではあるが一部投降移送されたとのニュースに人道的な意味でホッとした人も少なくはなかったと思う

ウクライナのゼレンスキー大統領(もうそのプロフィールを書く必要はあるまい)にとってある意味では苦渋の決断ではあっただろうが素人目にもよく計算された最善の決断だと思う太平洋戦争における日本帝国軍の「玉砕」戦法(戦法といえるかどうかは別として)に比べても、2021年9月のアフガニスタンにおけるバイデン大統領の撤退期日公表に比べてもあらゆる意味で一段階上の合理的冷静な判断だった

2/24未明のロシア軍の侵攻直後ウクライナは一気に対空防御能力を失ったと思われたその後の一方的な空爆により「外交知らず」「戦争知らず」「政治的無知」なはずの「コメディアンあがりの」(たまたま大統領になってしまった)ゼレンスキーは震えあがって国外に逃亡しアメリカが用意したベッドの上で口先の「亡命政府」を名乗るだけになると多くの人が予想したが彼はそうしなかったどころかそれらの予想を180度ひっくり返して見せている。5/17現在でウクライナがなお領土防衛の高い士気を保っているのはひとえに彼のこの姿勢が原点になったといっても過言ではない

まさに映画のヒーローそのものでありゼレンスキー氏自身が当の映画人であってみれば「彼が(たまたま)大統領に選ばれた映画」そのものをいまだに演じ続けていておそらく心の奥底で彼の役者魂がかえって彼を真の大統領に為しえているとわたしは想像する彼の冷静さも自分と役柄との微妙な呼吸からどこかで自分自身をカメラで追っている感覚それが彼を本物のヒーローにしているひとつの力なのではないだろうか

``Jatorrizko'' izeneko ``Objektua''

Clematis loratzenboligrafoa、akuarela

Clematis bi poto erosi nituen motibo gisa.。urtero loratzen zen、lore handia、Clematis urdin belusatua、Zerbaitegatik ez da aurten agertuko。Oinez ibiltzean, batzuetan Clematis begiak ikusten ditut beste nonbait.、Etxean genuena onena zela iruditzen zait.、nahiko etsigarria。

Azken 2-3 urte、Denbora asko eman dut CG zirriborroetan eta bideo ekoizpenean.、Objektu fisiko gisa gure esku geratzen diren lanen kopurua nabarmen gutxitu da.。CG ere lan bat da, zalantzarik gabe.、Mihiseetan eta zirriborroetan marrazten ibili naizenaren sentsaziotik, nahiz eta urte askotan traba gisa hartu izan nauten,、Nolabait (ez、Nahiko asegabea iruditzen zait。
Intuitiboki ez dago ezer berezirik paperean marraztuta dagoelako.。Baina、Zalantzarik gabe, hemen dago bat、Segurtasun sentsazioa bezalako zerbait dago。Erraza da ordea、Oraingoz, “original” bat iruditzen al zaizu?。CGrekin ere、NFTak bezalako obra "jatorrizkoak" sortzea posible bada ere,、Oraindik nolabait eskuz marraztutako = jatorrizko ekuazioan oinarritzen naiz (esanahia denborarekin aldatu bada ere)。Belaunaldi hutsune bat besterik ez da?。

bada、"Eskuz marraztuta = jatorrizko" ekuazioa aldatu gabe geratzen bada、Hamarkada askotan borrokan jarraitu dugun bide aldaezinetik,、Apur bat bananduta nagoela uste dut。Adin honetan、やっとCGの世界にほんの一歩だけ足を踏み入れた程度だがその時「この等式はいずれ意味を為さなくなる」と直感し道を踏み外すことへの小さな覚悟があったことは忘れていない

手描きによるオリジナルもCGによるオリジナルも社会的にはともかく制作者個人にとっては実際はそんなに違わないものかもしれないそれにしてもいまだに現代の絵画の値段が数億円もするという現実を見るとオリジナル=独り占めという人間の物欲の等式の強さをまざまざと見る思いがする