展覧会で思うこと

11月6日から銀座8丁目ギャラリー「風」でグループ展をしている写真は出品作他に小品2点

展覧会をしたり人の展覧会に行っていつも思うのは「この展覧会に果たしてどんな意味があるのだろう」ということだ作家個々がそのことをあまり深く考えていないことに毎回呆然とするやりさえすれば描いてさえいれば作家だと思う人或いは宣伝と割り切っている人もいる

作品自体についてはよく考えそれなりに努力していることは分かるでも表現技術に終始し表現という大きなものの中で自分のありよう表現のもう少し深い意味と広がりについてはどこかの本を読んだ程度の上っ面だけしか考えていないように見えるそんなこと考えていたら制作できないよという声が聞こえるが

細胞トレ / Cell training

絵を描くということは私たちがふつう考えているよりずっと身体運動なのかも知れないヒトは立っているだけで全身の200以上の筋肉のバランスを取っているらしい

絵を描くのだから筋肉だけでなく目脳も使う脳を使うということは脳細胞を活性化するということだからその分血液も多く流す必要がある心臓にも自然そういう指令がとこからか出ているだろうし血流量を差配する交通整理のような役目も身体のどこかでやってくれているに違いない

エキサイトして鼻の穴も少しは広がっているかもしれない足は手を自由にさせるためにかえって普段より踏ん張っているかもしれない耳は?あまり働かないよう縮こまっているのかも一区切りつくまで腸も空腹を訴えるのを我慢していたりその分肝臓が栄養分を配給…etc全身運動という他ない見る方にもほぼ同じことが言えるはず筋トレというより細胞トレーニングではないか

感覚の墓標 / Grave-postmark of the senses

ニュースやネット本などからの情報を眺めていると世界が身近でよく知っているもののような錯覚を覚えるでも実際は事実のようではあるが不確か他人と共有できることによって事実性を何となく納得しているだけのような気もする

私たちが得る情報の多くは身体感覚を通したものではない今はソファーの上で登山ができるしかも地球の反対側に住んでいる人とチームになって登り同じ時刻に頂上でハグしたりするバーチャル・リアリティの話だがすでにこちらの方が自分にとってリアルだという人もいる

ほとんどの情報や知識は身体感覚など通さない宇宙の知識情報などその典型だ豹やマグロが土星の輪を想像することなど恐らくあり得ない他の動物に想像力がまったくないかどうかは知らないが人間が最も身体感覚から遠い知識情報を持っているのは間違いないだろう

けれど身体感覚を通した情報知識は(それが間違ったものだとしても)特別なものとして私たちの記憶に残る特別とはその記憶が脳だけにとどまらないという意味だ最近の科学では身体中のあらゆる細胞ばかりか身体に潜む細菌バクテリアとの間でさえ情報交換をしていることが解ってきた

知識や情報の量を脳だけに頼るとき私たちの想像力感覚にも墓標が立てられることになりそうだ