in put, out put‐Nさんの試み

「石1」Nさんの水彩
「石2」Nさんの水彩
「石3」Nさんの水彩

一般的に入力出力と遣われる語だが少し考えてみると put という単語がちょっと意味深に思えるput=置くというのだから置くモノが要るモノだからin⇄out と移動すればそれぞれ元の場所には無くなるわけだろう

in put は自分の勉強(時間)out put はその成果を発信すること(かなり恣意的なつなげ方だと思うが)と考えれば勉強(情報収集)は「アイデアの芽」もしくは「種」でありそれが「実」になるまでには一定の年月経験が要るそれが数カ月なのか数十年なのかはモノにも人にもよるだろうがいずれにせよ熟すまでの時間が必要だということだ

ごく普通に考えてもバケツの中にあるモノを外に出し続けるだけならばすぐにバケツは空になる「断捨離中」なら嬉しいがそれが精神的なモノであっても出し続けていればいずれは空になる「競争に打ち勝つ」ための「発信力」が強調されがちな昨今有り余る内容を持っている人や会社事業体などはいいが特に何もない人ところだと発信する内容を「泥縄的に」作りながらやらなくてはならないこともあるのではなかろうか(「泥縄」なんてすでに死語ではあるまいか?泥棒を捕まえてから(縛るための縄をなう)という「準備不足」を戒める言葉念のため)

わたし自身がずっと前から「これじゃ泥縄だな」と感じていたインプットとアウトプットの間隔が「即」なだけではなく逆になるほうが多くなってきたからである―「青いカモメ絵画教室」のNさんの習作「石1」~「石3」を見るとNさんが「インプット」している様子がビンビン伝わってくる情報を仕入れるだけがインプットではなくそれを自分の中で揉み込み発酵させているのがよく解る「発信」が目的ではなく結果であるという王道の歩みかたを見てほしいNさんの「石」はすでにかれこれ数年に亙る

Pen と鉛筆(1)

フェルトペンのスケッチ例

pen と鉛筆はどう違うのか?ペンはインクだし鉛筆は…黒鉛だろ?でほぼ合格点といっていいだろうが純粋な黒鉛で描く鉛筆(黒鉛を箸で挟んだような感じ)は極めて初期のものだけで現代はそれに粘土を混ぜ焼成して作られる粘土の割合が多くなればH,2H,3H・・・と硬くなっていく。15Hくらいまでは案外普通にあるらしい

ペンはインクを使うのだが紙とインクの“あいだ”にあるのがペンで鉛筆より間接的だということがペンを使う時にチラッと頭をかすめる“漬けペン”というのがあるインク壺にペン先を突っ込んで原稿用紙に向かうなんて映画などで昔の小説家が煙草をくわえながらやってるのがそれ鳥の羽を採って軸に切れ目を入れた羽根ペンや漫画家の使うGペン細密な丸ペンガラスペンなどもその類(ガラスペンは筆記具というよりすでに工芸品)鉛筆の方も色鉛筆水彩色鉛筆ワックス鉛筆クレヨンと多彩な顔触れになっている

ちょっと話の方向を変えるが現代において一般的に使用されるペンは大きくボールペンとフェルトペンに大別される漬けペンはすでに古典的でやや趣味的アート的な場面でしか使われないと言っていいのではないかこの二つの中ではフェルトペンの方が“原始的”原理としては液体に布や皮の一端を浸し毛管現象で這い登ってきたインクを紙に擦(なす)り付ける方式要するに「筆」の現代版ボールペンはインク壺をステンレス製のボールでいったん塞ぎ壺側についたインクをボールを壺に密着させたまま回転させることで曳きだし紙に押しつけるもの近代的アイデアの勝利原理は単純だが非常に精緻な技術が必要でこちらは純然たる精密機器―それが100円もせずに買えること自体が凄いという気さえする市販のボールペンはひと昔前のものに比べると格段に書きよくなっている

ペンと鉛筆どちらが優れているかと択一論に傾きたくなるのは解るがそれは結局各自が決めることだというしかないデリケートな明暗のグラデーションを望むなら鉛筆に勝るものはない濃く安定した一定の太さの均一性が必要ならボールペンがベスト―そのために作られたものだから紙との摩擦感ある種の描画感を味わうならフェルトペンが良いボールペンよりほんの少しArtistic ?―だがどちらを使おうと道具である以上たとえばArtなら経験・修練がモノを言う世界文章を書くならどちらにしても剣よりは強い―がそれはデジタルにした方が今は効率良さそうである

モチーフ(制作の動機)

シンクの水滴

絵画で何を描くか小説で何を描くか音楽で何を描くか記者が何を記事にするか政治家がどんな社会を描こうとするか・・・対象はバラバラ雑多なように見えるがカクテル光線のようにいろんな波長の光が重なってそこが立体的に浮かび上がって見えるところがきっとある

皿洗いはわたしのルーティンのひとつ食器がシンクに溜まっているのがタマラナイ坐りっぱなしの生活時間が長いから脚の血行回復のために時どきは立つ(stand up)必要があるぼんやり立って踵上げくらいの運動でもいいらしいがそれと皿洗いを合体させた英BBCの人気番組に“キッチンでダンス”というのがあるらしい中身を子細に見たことはないが要は“皿洗いを楽しいダンスの時間に”ということのようだリズムよくお尻を振り振り食器洗いが健康にもなるという発想はわたしと同じ皿を洗いながらわたしも開脚したり腰をひねったり洗う食器や鍋の量が少ないとかえって運動不足になりそうな気がしてくるから習慣はおソロしい

そして毎日見るのがこの「風景」毎日見ているようでも二度と同じものを見ることは出来ない事実も真実もここにはすべて在る絵画小説…社会政治などのどの分野にも深く重なっている定点観測のようにこれを毎日毎回写真に撮るかスケッチしたらきっとドエライものが出来ると思いながらいまだに一枚も(最低1枚は撮った)撮らずスケッチもしていない―特別なモチーフを探す必要などどこにもなくこうやってごろりと目の前に転がってわたしを下から窺(うかが)っているのだった