آپ کو ایک طویل جنگ سے لطف اندوز کر سکتے ہیں

سانپ لوکی F4 پانی کے رنگ 2011

2ヵ月ぶりに父の入院している病院へ3日間だけ行ってきた

最初の印象は「父によく似た別人」2ヵ月前は頭に包帯を巻き目も腫れぼったくほとんど何を言ってるのか判らなかったがそれでも「病気の父」だった今度は包帯も腫れぼったい眼も無かったが目の前にいるのは父ではなく抜け殻のような人間というよりどこか猿のような別人だ私の顔にもほとんど興味は無さそうに目をそらした

2日目父の昼食を手伝う手も腕も上手く使えない父は昼食に1時間から1時間半もかかるそれも介助してもらって一人で食べるのはほぼ不可能口に入れてもらっても呑み込むことさえ簡単ではない話しかけ励まし落としそうになるまで一人で食器を持たせスプーンを持たせ出来る限り自力でやらせるやがてだんだん意欲的になり口まで運べなくても食器を取り替えて持とうとし中身をきちんと真ん中に寄せようとし食べたくないものを食器から掻きだそうとし始めた

声もほとんど出なくなっているが一生懸命たくさんの言葉を使って話し始めた口元にピッタリ耳をつけるようにしないと聞き取れない小さな声だがそのうち意味のある語をいくつか繋ぐようになり相槌を打つとますます話すようになったやっと猿から人間の世界に戻ってきてくれたように感じる真面目で努力家タイプの父の性格が感じられ始めた

大好きな新聞を渡すと読もうとするまだ字を読めるかどうか判断できない状態だが目はいかにも次々と記事を追っていく流れだ時々新聞を持ちなおす仕種はさすが堂に入ったものだ何とかなるかもしれないとこの瞬間から希望を持ち始めた記事の内容を耳元で怒鳴るように伝えると(耳も遠くなってしまったらしい)判っているとうなづく(しかし大半は分かっていない感じがする)それでも機械的にうなづいているのではなく脳内のどこかで反響した結果としてうなづいているのは確かだ分からないのは分からないと小さくつぶやくのだから

脳の病気は長期戦覚悟だそのうえ高齢であればなおさら体力は更に無いにも拘わらずきっと父は私たちの中に戻ってきてくれると確信できた3日目の昼はいかにも食べたくなさそうだったから「美味くないか?」と聞いたら即座に「不味い!」と吐き捨てるように返事したよくは聞き取れないが「歯ごたえも口当たりも良くない」と訴えていると理解出来たすべてゼリー状の食べ物が一級品の海産物を日常的に食べて来た父に美味いはずはない私は笑ったそれは昨日のことだ  2011/10/11

 

できることしかできない

カプセル(未完)F4 MX 2011

出来ることしかできない馬鹿みたいな言い方だが実際自分の能力を越えたことをやろうとしても出来るはずはなく自分の能力の範囲内で出来るはずのことさえ実際にはなかなか出来ないものだという極めて現実的な意味である

しかし一方では自分の能力がどれほどのものなのかはやってみた結果でしか分からない結果が出てももう少しやれるかも知れないという感じを抱くこともあるだろうと思う

それに能力というものには絶対的なものと相対的なものとの両方があるようにも思う絶対的なものとは例えば先日行われた世界陸上のように、100mを何秒で走れるかなど相対的なものとは例えば相撲のように勝ち負けのあるもの詩を作ったり絵を描いたりするのはどちらに近いのだろうか

先日あるエッセイの中に「相手と自分が同じくらいと思ったら大抵は相手が上」というのがあった自分のことは過大評価他人のことは過小評価するものだという意味だろうか評価とはもともと自分でしてはならないものなのだけれど

それでも自分の能力とか自分ができる限界とかを考えるのが凡人の常というものだ運転中にも関わらず古今の画家たちの死亡年齢と傑作を描いた時期とを漠然と考えてみたレオナルド・ダ・ヴィンチ享年67歳受胎告知の制作が20歳頃ラファエロ享年37歳バチカンの大作「アテネの学堂」が26歳頃の制作同じくピカソ92歳、20世紀絵画の幕開け「アビニヨンの娼婦たち」が26歳頃だゴッホロートレックがいずれも37歳で没エゴン・シーレ28歳クリムトに認められたころはまだ17歳だったなどと考えると私などが自分の能力などという言葉を使うこと自体身の程知らずだという気持ちになる

لیکن、絵を描けば愉しいことに変わりはないし(苦しいことにも変わりはないが)生きているうちに止めることなどできるわけも無いとすればそんなこと考えたってしょうがない自分の好きなことをやれるだけやればそれで十分と思うよりほかにない結果など考えるより今やれることを目一杯やる以外に選択肢は無いのだと考えていたら知らずにアクセルを踏み込んでいた運転中に出来ることは安全運転を心がけることだけである

occupied japan

occupied japan

車で近くの農業産品を主にしたマーケットへ講座用の冬瓜か何か静物のモチーフに使えるものが無いかと出かけてみた

外にいくつか出店があり最初に(ガラクタ)アンティーク風の店があった特にいいものだと思ったわけではないが何となく目にとまったものがコレ高さ10cm程の小さな陶製品で同じようなものが他に2個ありほんの数分だが眺めていると店の人が話しかけてきた話しを聞くとつい流れで買ってしまうのでちょっと警戒したが絶対買う気はないぞと心に言い聞かせて話を聞くことにした

made in occupied japanと裏に刻印があるのは昭和22年から27年までの5年間占領下の日本としてつまり日本と言う国が失われていた期間だけ輸出用の製品に表示することが義務付けられていたことを示している(ウィキペディア)昭和27年(1952)4月28日にサンフランシスコ平和条約が日本と占領国との間で発効するがこの時から日本は主権を回復しmade in Japanと表示できることになったのだそうだこれはすなわち日本がたった一度だけ日本でなくなった時期の輸出品でそれが今度は再びアンティークとして日本に里帰りしたものなのだ出来自体は大したモノはないのだが、5年間という限定があるのでそれなりのコレクターがアメリカにはいるらしい

そう聞いてしまったら絵のイメージがふっと湧いてしまったこれはマズイ!と値段を聞くと安くしますと言うますますマズイ!結局3個とも買ってしまったでももともとの1個分の値段で3個買ったのだから得した気になった妻は「原価はいくらだろうねさっと下げたのだからきっともう一声下がったと思うよ」と残念そうだったが私はもう返事をする気にならなかった 2011/9/11