青いカモメ…展

「青いカモメ」  2020

正確には「青いカモメの会・絵画展」明後日9/15(火)から始まるカモメをテーマにした会でもカモメの絵があるわけでもない「青いカモメの会」という絵画教室の展覧会です教室の名は当ブログの名に因む

今年で第7回不適当な言い方かもしれないが年齢だけ見れば高齢者の絵画展(学校関係やコンクールを除けば日本中の展覧会はその意味では似たり寄ったり)になってしまった「なってしまった」のは時間が止められない以上ある意味で仕方ない。Међутим、年々少しずつだがレベルが上がっているのは嬉しい

手前味噌だがそれはメンバーひとりひとりが絵に対して真摯に向かい合っている証拠だしそれぞれの課題にチャレンジしてきた結果でもある、Мислим да。наравно、プロではないし体力的な問題もあるから作品を「世に問う」などと鼻息荒く息巻くようなものではない。Међутим、単なるお絵かきボケ防止のお遊びのようなものだと馬鹿にしてはいけない最近の作品には本質的な追求を含んだものも散見するようになってきたからだ

絵の世界は深い単にプロ的なテクニックの上手さだけで描ける世界はその一部に過ぎないし楽しければそれでいいという享楽的?な世界もやはりその一部分いずれにせよ自分たちがやっていることは大きく深い世界のほんの一部であり多くは未知のものではあるけれど案外すぐ隣に底の見えない深い断崖のようにそのいり口が大きく開いているのを風のように感じられるようになった絵がわかるというのは評論家や作家の説明が言葉で理解できるという意味ではなく実はそういう風に作家の息を肌で感じられるという意味の方が大きいのだ。и、彼らの絵が少しずつそういうことをささやけるようになってきたことが私にとってはいっそう嬉しい

ああ九月

「Apple-3colors」(未完) 2020

「ああ五月」「ああ皐月」とかいう詩や歌をどこかで目にした覚えがあるがそれは五月(皐月)の時候の美しさやそれに重なる快活な情感への賛歌だと記憶している

「ああ九月」は「ああもう九月になってしまった(しかももう半ば近い)」(それなのに何にもしていない)という自責の「ああ」だああコロナのせい暑さのせい隣家の犬がうるさいせいだ

やらなくてはならないことを一寸先に伸ばすごとに心が1ミリずつ縮んでくるような気がする寿命のローソクが確実に短くなるというのにまた隣家の犬が吠えるいったいなんだってあの犬はあんなに吠えるのか隣家の人々は全員耳が遠いのだろうかそれとも耳栓をしながら私に向かって吠えさせてでもいるのだろうか。Осим тога,、なんだって九月だというのにこうクソ暑いのか私の家に誰かが嫌がらせにこっそり熱風を送り込んででもいるのだろうか

私だけが「ナマケモノ」ではないはずだたぶんきっと同類はいるはずだ隣家の犬や猫やふくろうやミミズの声に悩まされてなーんにもできない人もいるはずだ。Али、そういう人は私には見えない我が家では全員が死体のようにゴロゴロ床に転がっているというのに窓から見える人たちはこの暑さの中を普段と変わらない速さでさっさと歩き常に何らかのお仕事をしているように見えるしかも涼しげ何か特別な飲み物でもありそれを私が知らないだけなのだろうかああ苦月十月は目の前心がぐんぐん縮むなのに私の身体はなぜか仕事に向かうことを拒否している

自分に還る時間?

「 Apple-Yellow」 2020

しばらく制作を休むと頭も体もついていかなくなり特に制作途中の作品に気持がつながるまでにはかなりの時間がかかる。зато、たとえ制作時間が短くても毎日描くのがよいと昔はよく言われたものだ今もそう言う人がいるのだろうか

8月も後半に入ってやっと制作への神経回路が繋がり始めてきたのを感じるほぼ丸々1ヶ月かかったこの1ヶ月はまるで自分の頭の一部をどこかに置き忘れ他人の手を借りて描いているような感じだったそして寝る前にいつも同じことを呟く「いったい自分は何をやっているんだろう」

本当は絵なんか描いている場合じゃないのかも知れないただ描かないことには自分のいる場所が無いそんな気分になって落ち着かない。Засада、自分を落ち着かせ何かを考え何かができるようにするためにも(私にとっては)絵を描く時間が必要だ

AIが絵を描きそれをAIが観賞しその流れの最下流で人間がその「絵」を見るようになるだろうかその時「絵を描く時間」はどんな意味を持つだろうか