「探しもの」–まだまだ探す気ですか

「Apple-jeans」     2020  Tempera on canvas  F6

井上陽水の「探しものは何ですか」ではないがまだまだ探す気ですかの心境を味わい続けている見つかるはずもない「精神的な」探し物ではなく物理的な「電源ケーブル」を捜索を諦めてネットで新品を購入するかまだまだ探す気ですかの二択というわびしい話

今日はある展覧会の関係者だけのオープニング・パーティが午後4時から私も出品していて行くつもりではいたのだが昨日からの頭痛が少しあり「風邪気味かな?」と思ったので遠慮することにしたそして雨戸の修理できなかったそれからケーブル探し何かを探すということは結局は片付けをすることにもなり大規模な掃除に。ale、見つからないその間に昼食を摂り魚だったので一部を時々庭に寝そべりにくる猫(首輪をつけている)にやり食うところを見たりしながらケーブルを探す

実はもう3日も探し続けている探す範囲は限定されている(それが思い込みなのかも)ので一箇所あたりの捜索時間は相当になるはずだ自分の顔のホクロ探しよりも慎重(なはず)だ半年前そこに置いた時点から「ここはマズいかも」との不安だけがズバリ的中した感じ

そろそろ諦めて新品を買うかまだ探すかの選択が迫られてくるタイミングだ嫌だなー何でこんな時に雨戸が壊れなくちゃならないの!そういえばインチサイズのマットがたくさん余っていたなあ–とか何でこんな時に思いついちゃうんだろうかな

音楽の「力」、Umenie、スポーツの「力」

「西洋梨」 29Jan’20  水彩 F6

坂本龍一という音楽家がいるもとYMOのメンバーなどと言わなくても知っている人の方がたぶん多いだろう先日朝日新聞(電子版)での彼へのインタビュー記事を読んで全く共感した

「音楽の力」という言葉言い方が嫌いだという音楽に人を勇気づけたり癒したりする力があるのは事実としてそういう「言い方」に違和感を持つというのだはっきりとは言わないがその言い方がある種の政治的社会的な方向への指向性を持たされることへの危険な匂いを嗅いでいるということだと感じたその嗅覚に深い共感を持つ

ワグナーの英雄的な響きがナチスに最大限利用されたように日本でも歌謡曲的な音楽が半ば「軍歌」として広く歌われ戦争を美化する方向に利用されたことは多くの人が指摘するまた彼は高校生たちが(スポーツなどを通して)「感動させたい」という言い方をすることも「嫌だ」という受け取る側が感動するのはいいが演じる側が「感動させる」というのは傲慢ではないかともいうのであるこれにも深く共感するついでに言えば特にスポーツの若い選手たちがやたらに「感謝」という言葉を連発することにも私は強い違和感を感じるそれは引退の時にこそふさわしい言葉ではないか

選手たちが競技のための施設や助成金多くの有形無形のサポートに対する感謝の気持ちを持つのはもちろん悪いはずはない。Avšak、素直な気持ちだけではない「言わなければ」ならないという「圧力」を私はそこに感じるその言葉がなければ後でいろんな形でのバッシングがあることを選手も関係者もひしひしと感じているからだ無意識に「私たちの税金を遣っているのだから感謝して当然」という感情がそのまま上から目線の圧力になっていることに私たちはもっと注意深くなければならないそしてそのことをよく識っていて密かに利用する暗い力があることにも同時に意識的でなければならないと思う

音楽の力芸術の力スポーツの力それが人々を多様性でなく(実はこの言葉も最近特に聞きたくない語になってきた)平面化する方向に働く(ここでは「共感」「感動」という語も怪しい匂いを漂わすことがある)ならばそれは本物の「音楽、Umenie、スポーツ」の力を削ぎ落とし歪なものに変質させる一種の癌にもなり得るのだ龍一氏曰く「やっていること自体が楽しいそれが大事」そうその存在を見るだけで税金などとっくに元は取れているのである

百人一首

「西洋梨」 2020、1 水彩・F6

10年近く前から俳句を始めた何か趣味と言えるものがあったらいいなと思ったからだ元手がかからないし考えるのも十七字だけというのが相当ものぐさな自分にもできるかなという(多くの人と同じ)不純な気持ちからだったとりあえずすぐ挫折しないために(小規模過ぎる)句会で指導してもらうことになった月1回の句会だが昨年暮れに記念の100回になった初めはいろいろ試してみたくて独りよがりのかなり偏った句を多く作りメンバーの顰蹙を買った

最近は十七文字ではほとんど何も言えないと感じてきた一応伝統俳句だから季語を入れるこれで大体五字を遣ってしまう残り十二字だが具体的な事物の名前や若干の描写などで五文字ほど消費する残りの七文字で自分の気分や意思を伝えるなんてできるわけないと感じてきたのだ確かに名作十七字だけとは思えないほどの深さや広がりを感じる「名句」というものはある。Avšak、私のような凡人にとってはどうしたって人真似類想句にならざるを得ない

それで三十一文字の短歌なら季語も要らないし丸々自分用に使えると思って現代短歌の本をちらちらと読み出したすると確かにずっと面白いけれど作るとなると七文字と三十一文字では4倍以上大変なこともわかってきたこれは時間的にも精神的にも負担が大きい一方では俳句もまだ継続中そんなわけで時々は短歌を作って前半の十七文字のところだけを俳句とすれば一石二鳥ではないかと考えたのだった

そんなにうまくいくわけはないと思ったがやはり予想通りであった短歌でも大事なところ言いたいところは後半なのだ。ale、そこで一つ気がついた短歌の前半つまり大したことではないところそこは風景や情景といういわば「背景」を説明する部分まさに「花鳥風月」の部分じゃないかなるほど俳句というのは大事なところをすっぱり切り捨て七文字じゃとても言い切れないからと読む人に思いっきり丸投げしてしまうブラック商法なのだなと-ここでやっと「百人一首」に繋がるのだが王朝時代のゆったりした叙景の「コツ」を覚えるには万葉から新古今集あたりまでの名作がたった百首に絞り込まれた「百人一首」が一番手っ取り早いのではないかというおよそ趣味的ではない発想で読んでみることにしたのだったところがどうもこれがいろいろと後を引きそうな気配濃厚である意味困っているところです