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靖國神社

売店にて
「晋ちゃんまんじゅう」その他

午後から急いで東京・九段のイタリア文化会館へRobert Bosisio の絵を見に行ったとても質の高い良い作品だったがたった4点しかない画集が2冊置いてありそれを見ても全体で30分もあれば十分画集を売っていないかと聞いても「見るだけ」とそっけないじっくり目に焼き付けて帰る

九段坂上の角まで来ると靖國神社が正面一度も見たことがないのでせっかくだからと入ってみた以外に若い女性が多いのにちょっと驚く中に入っても習い事とか何かあるのか連れ立ってそれなりにきちんとした身なりの女性たちがかたまって座っていたりするこちらは半袖の汗だくであちこちうろうろ昨日は暑かったんだ中国人が多いのも意外「歴史認識」の海外研修か?

帰り際チラッと売店をみると「晋ちゃんまんじゅう」麻生太郎の似顔絵のついた「タローカポネ・ラスク」知ってはいたが実物を見るのは初めて毒のようで食う気がシネーナー

エミリー・ウングワレ

エミリー・ウングワレ「私の故郷」1992

エミリー・ウングワレ(Emily Kame Kngwarreye 1910?-1996)はオーストラリアの中央砂漠の端の小さな集落にアボリジニとして生まれたいわゆる西洋式の教育を殆ど受けたことがなくアボリジニの伝統しきたりの中で育ちそこから出たこともなかった

オーストラリア政府の教育プロジェクトの一環として近くで美術と工芸のプログラムが始められエミリーがそれに参加したのはもう80歳目前の時だ始めはバティック(染色の一種)を学んだが、2年ほどして美術の授業を受けそこで初めてキャンバスに絵を描くことを体験するそれまでは(西洋)絵画に関する一切の知識も経験もなく絵筆を握ったことさえなかった

この時のプログラムの最後に受講者たちの展覧会が開かれそこでエミリーの絵が注目を浴びる。1〜2年のうちに現代絵画の世界的な展覧会に招待されるようになりオーストラリアを代表する作家になる絵というものに触れた瞬間から亡くなるまでのわずか5〜6年世界の現代絵画のなかで特別な位置を占めるまでになった

彼女自身にとってはそのような栄光にほとんど意味はなく依然として砂漠に住み周囲の自然の感覚の中でヤムイモの収穫を祈りそれを食べ感謝の唄を歌い踊るキャンバスに絵具を塗ることもそのような自然な生活の一部分になったということに彼女自身の意味がある1点数億円で自分の絵が売買されることよりヤムイモや地の霊を思いそこに捧げる歌や踊りのもう一つの方法を絵という形で獲得したことが彼女にとっての価値になった計算するとほぼ1日1枚毎朝顔を洗うように昼寝をするのと同じように描いていたらしい、3000枚の絵私はエミリーが亡くなって2年後にその大展覧会を見た

面白い本

面白くできたかな?「Apple」と「鳥の習作」

最近読んだ2冊の本「ほぼ命がけーサメ図鑑」沼口麻子「身近な雑草の愉快な生き方」稲垣栄洋著ちくま文庫「サメ…」は図鑑…確かに図鑑的な内容ももちつつほぼ(研究)エッセイという少し変わった本ほぼ体当たり体験でサメ愛に没頭するその情熱が伝わってくる結構ボリュームのある本「身近な…」も著者は植物研究者最近たくさんの本を出しているがこれは文庫で、50種の雑草についての研究者の視点をベースにしたエッセイ俳句をやる人にはおススメだただの草がただ者でないことを知らずに「草分けて」などとは詠めなくなる

「ミロの絵本–うっかり地球へ」結城昌子 小学館 という絵本がある小学低学年対象かなミロに注目したところがミソ図書館へ行くと子ども対象のアートの本もたくさんあるけれど大人目線で言葉だけ理解しやすくしてある一言で言えば大人感覚の押しつけ「覚えましょう本」が多い「ミロ…」を子どもは3分でミルに違いないけれどもしかしたら中身は一生残るかも大人も一見あれ

面白い本を読み見て常に感じるのは何をやるにも十年単位の「時間がかかるんだな」ということ著者の情熱が単なる知識を伝えるだけに終わらせず著者自身に様々な体験をさせ冒険をさせてしまう著者自身が体験的に過ごしてきたその数百分の一数千分の一の時間を著者と共有させてくれる本それが私の「面白い本」の定義であるらしい