芸術は何を与えているのか

ポットの花 (水彩)

かつて世界選手権やオリンピックの代表だった某スポーツ・コメンテーターが最近こんなことを言っていた「スポーツ界がスポーツをやらない人の税金まで使って社会に何を還元できるのかそれを考えないと国民がスポーツから離れて行ってしまう」

心情を理解できなくはないがちょっと危ないなと感じるのは「税金を使うのだから何かを返さないと(いけない)」というギブアンドテイクに似た部分この部分は最近の日本ではむしろ多くの人に共感されそうだが少し深く考えれば「返せない(と思われる)人には使わせない」という社会的弱者の排除につながりかねず子どもの教育にも「将来国に返せよ」という国家主義的な義務感を植え付けかねないと思うもちろん本人は直接そんなことは言っていないがそう解釈されそうな論理を孕んでいるこの「返し」が「かたちあるもの」になってくると「(金)メダルでないと意味がない」などという発言になってしまう

そんな考え方をしてしまうと「では芸術は何を返すのか」ということになりかつてのロシアや現代の北朝鮮のような「国家に奉仕する」プロパガンダ絵画になる「芸術は社会のカナリアだ」という人々がいる確かむかし炭鉱夫が坑内へ入るとき酸欠状態かどうかを知るためにカナリアを先に入れたということが言葉の起源だったと記憶しているスポーツや芸術を認める社会がとりあえずは「安全」だというバロメーターとしてだけでもすでに充分意味のあることだ

世は健康志向だけれど三流映画に出てくるようなただただ殺戮するだけのロボット的な軍人ならともかく運動と栄養だけで人間は健康になれるわけではない精神的な愉しみ安らぎが必要だ心の栄養も不可欠だということ人間らしさという意味では芸術は最も社会還元の大きな分野だとわたしはいつも思っているが同時にそれがこの社会の常識であり続けることを心から祈ってもいる

悪魔のささやき

黄色のワイン瓶のある静物 (水彩)

7月7日にブログにアップしたこの絵のプロセスの動画を昨日(7/21)YouTube(青いカモメの絵画教室) にアップした編集にあしかけ3週間(そのうちの1週間以上は何もできず)かかった画像編集が終わってからのナレーションの方がむしろ時間がかかる下手なナレーションなど無い方がいいのではないかと毎回自問しつつ

「動画は短ければ短いほどいい」のだそうだ聞くと「40秒」以内が主流になりつつあるというスポーツやダンスなどでは、40秒あれば確かにそこそこの勝負まで伝えられる大相撲名古屋場所がコロナ蔓延の中で興行中だが相撲の結果だけ見たい人にとっては勝敗一覧表の1秒でいいし取り組みダイジェストを動画で見ればライブなら2時間かかる幕内全取り組みを数分で見終える

けれど絵のようなもので何が伝えられるかというと考えてしまう完成作を見るだけならそもそも動画にする必要などない動画にする意味はまずそのプロセスに興味がある人にたいしてだけそういう人がどれだけいるかと考えてみると膨大な時間を使ってほとんど無意味なことを自分はしているのではないかそんな暗澹たる思いにとらわれてしまう

「40秒」という悪魔の囁き聞かない方がよかったのかそれとも聞いてよかったのかこの暑さの中で心がキューっと冷えていく気がする

スケッチの授業

大学内でのスケッチ講義で

大学での授業を昨日(7/16)終了した今年度春学期の最終授業日という意味でもあるがわたしにとってはこれが大学という場での最後の授業でもあったすでにオンライン授業の準備は整っていたがシラバス(授業の概要)カリキュラム(予定表)を書き直して対面授業に臨むことにした

18才の若い学生たちと対話をしながらスケッチの方法を学んでいきたいと考えたからだが―思ったようにはできなかった一つには最初26人も受講者があったこと多くの学生が科目に興味を持ってくれるのは嬉しいが一人一人と対話を進めていくにはちょっと多い後半になって科目の目的でもある野外スケッチを通じて一人一人の感性を感じながら対話ができると期待していたが、3回の予定のうち1回は雨、2回は異常な暑さで野外でのスケッチを屋内に変更スケッチなどという授業は戸外でのんびりお茶でも飲みながらやるのが理想的だとわたしは思っているが熱中症対策が中心になってしまいそんな雰囲気はまったく作れなくなってしまった

天候のことは仕方ないし代替策は当然考えてあるけれどやはり戸外の解放感にはかなわないそれにその前から続いた暑さにわたし自身もかなり疲れていた残念さはあるが何人かはこれからも一生のうちにはスケッチをする機会があるだろうその時に少しは役に立つと思うことにした