
アッと思った時はもう遅かった。ほとんど「煮凝り」を食べ尽くしてしまっていた。それほど美味しい煮凝りだったんです!おそらく、死ぬまでわたしの記憶から消えないレベルの煮つけ、煮凝りかも。三日目?になるが、「絶品」であるという評価は今日も変わらない。
妻が作ったものだが、もちろん「(大)まぐれ」である。Για να το θέσω απλά、妻は(自分でも自覚しているが)“超” のつく料理嫌い。とりあえず食べられるだけマシでしょ、と本人は開き直るが、わたしも子どもも「シンクに捨ててしまいたい」気持ちを、「もう満腹」で示すことが(ケッシテ)スクナクナイ。Εν συνέχεια、子どもはナニカをタベテイルヨウダ。
言っちゃあなんだが、わたしの「魚料理」の味覚に対する評価はミシュランより厳しいよ。。魚以外のことはまったく分からないけれど、こと魚に関してだけは他人の評価を受け付けません。単にあなたの好みでしょ?と言う人がいることも容易に想像できますが、そういう人に限って、魚のさの字も知らない人が案外多い。ちょっと嫌らしい言い草ですが、“超” 魚好きの人だけには理解できるかも知れません。
魚は「とりあえず」鯛。海なし県埼玉のスーパーで、「安売りがさらに安くなっていたから」一匹丸ごと買ったという。「なんでそんなもの買ってくるんだ!」捨てろ!とばかり、わたしはつい怒鳴ってしまった。そんなもの食えるか!と思ったが、妻の心情と家計の事情を深くコンシダーすると、それ以上わがままも言えん。Ετσι、天井に向かってぶつくさ言いながら、とりあえず二枚おろしにし、(鮮度がないので)煮つけ用にぶつ切り。タレの配合もいちおうヒントはしたものの、期待感ゼロだったのでほぼ妻の勝手にまかせた。
なのにこの絶品の美味しさはどうして?やっぱり「腐っても鯛」だから?―でも、この大マグレの味を文字で届けることができない「歯ぎしり感」より、作った本人がこの「感動的な」美味しさが分からないというバカみたいなもどかしさと、「西洋料理」に慣れた子どもがあっさりと「猫跨ぎ」なことがまるで「漫画」。同じように作ったとしても、たぶんもう二度とできない味なのにね-。もしもこれが何度も再現できるなら、商売にできるとさえ思うけれど、それが「素人」というもんなんだよね。