
今年の描き初めの絵を、YouTube用に編集中。4日の木曜日には、らくらくアップできると思っていたが、今日になっても編集が終わらない。
「欲を出している」と言えば、確かにそうだ。毎回、満足することなど無いから、いつも “改良” するつもりでいる。それを「欲」と呼ぶなら、呼べなくもない。問題は、その「欲」が空回りすることだ。ピントがずれている。大問題なのは分かっているが、どうしたらいいのか分からない。
لیکن、もう少しだ。遅れるのは残念だが、とりあえずゴールを目指さないことには始まらない。
今年の描き初めの絵を、YouTube用に編集中。4日の木曜日には、らくらくアップできると思っていたが、今日になっても編集が終わらない。
「欲を出している」と言えば、確かにそうだ。毎回、満足することなど無いから、いつも “改良” するつもりでいる。それを「欲」と呼ぶなら、呼べなくもない。問題は、その「欲」が空回りすることだ。ピントがずれている。大問題なのは分かっているが、どうしたらいいのか分からない。
لیکن、もう少しだ。遅れるのは残念だが、とりあえずゴールを目指さないことには始まらない。
美しいと感じる対象(モノとは限らない)は人それぞれ違っているだろうし、それが大事なことでもある。同じ一人の中でも、その成長の時期や精神の深化の過程で、対象も変化するに違いない。そして、多くは忘れられ、失われていく。美しさは一瞬。
初夢の中で考えていた。自分が、本当に美しいと思うものは何だろうか、と。あれでもない、これでもないと選ぶうち、ふっと「雪かも知れない」と湧いてきた。
あとから考えると、元旦に雪景色を描き初めしたから、きっとそれが夢に出てきたんだろうと想像したが、その前に、美しいものを自分からどんどん捨ててきてしまったのではないか、と哀しい思いでいっぱいになっていたことも覚えている。
記憶の箱の中から、焦るような気持で、失ってしまった「美しさ」を一つ一つ取り出している(それらが皆、紙の上の絵のように平面なのは笑ってしまうけど)。そして、突然掌に現れたのが、小さな石にこびりついている雪だった。大好きな林の中で、半分ほど凍りかけた雪を指で擦っていた。
そうだ、雪の色は白じゃなかった。じんわりと石の色が透けて、ギザギザした、そして風に擦られた子どもの頬っぺたのような色をして、その上に針のような小さな結晶も一つ二つ立っている。ずっと、それを描くだけでよかったんだなあ、と目が覚めたあとも考えていた。
暮れに、今活躍中?のイラストレーター150人を紹介した本を買ってみた。どの人も人気イラストレーターらしいのだが、半分くらいはどれも同じに見えてしまう。名前は一人も知らなかった。それだけでも、自分がいかに「時代」の先端部から遠いかを感じる。時代遅れなのは痛いほど分かっているが、 “何週遅れているか” くらいは知りたいかなーと思ったんだ。
لیکن、そんなことは問題じゃなかった。そもそも同じレース、同じ時代にいなかったんだ。描くテクニックだけなら、周回遅れでもなんとか取り戻せるものだが、ついていけないのは「それが面白い」と感じるセンス。描く人(イラストレーター)と見る人がそれを共有しているセンス。何が面白いのか、分からないんだよ。単なるテクニックじゃ越えられない、一種の「カルチャーショック」。それを、若い人は「ブンカだよ」と言う。
わたしは、本当はイラストレーターになりたかったんだなと、今は思う。子どもの頃から絵を描くのは好きだったけれど、それは「写生」でもなく、ましてや「芸術」などではなかった。لیکن、その当時、ド田舎(“僻地” という語はすでに死語化だが)の小学生には、「イラストレーター」なんて言葉自体が存在していなかった。
絵の好きな子は、「家事の手伝いをしない怠け者」でしかなかった。。わたしは自分でも知らずに「長編ストーリー漫画」を描いて、誰にでも見せる代わりに、その分の仕事を人にやってもらい、ゲームを作っては、それに合う絵を描いて友達に配っていた。大人に混じって田舎芝居の背景も描き、村祭りの灯籠絵も描き、神社に奉納する絵馬や、祖父の年賀状の絵を毎年暮れに1000枚も描いていた。それは絵画作品ではなく、イラストだったんだな、と今になって解る。
マンガもイラストも「ブンカ」。それをいわゆるオトナが「文化」と読みかえている時点で、“周回遅れ” 。SNSもYouTubeも「ブンカ」であって、いわゆる「文化」とリバーシブルになっているようなもの。それがあると知っていること、それを享受、利用していることの「一つ上にある」ブンカ。「スマホでメールが送れる」は、文化であっても「スマホのブンカ」ではない。そのメールに漂う「呼吸」。それがブンカなんですよ、きっと。