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「わたし」と「わたしたち」

「わたしたち」というとき「わたし」はすでに誰か他人の陰に隠れている印象がある複数の中に紛れて自分を幾分か隠している感じがする

「わたしは」と一人称で言うときそれは自分の選択や行動を他人の誰かのせいにしないということにもつながるそれは厳しい世界の始まりになる一度巣立ったら鳥はなにがあってももう誰のせいにもしない(できない)鳥だけでなく魚だって動物だって昆虫だって同じことイワシの群れミツバチの群だってひとつの行動をするときその一匹一匹が隣のイワシやミツバチのせいにしているわけではなく本能的な危機管理能力のかたちがそうなっているだけのことだ違うのは人間だけ

逆に言えば「わたし」を捨て「わたしたち」を大きくすることで人間は社会を作り文化を創り出せたのだという言い方もできるかもしれないでも最近は「わたしたち」では文化は創り出せないような気がしてきた「わたし」しかできないのではないかと考えるようになったベートーベンは「わたしたち」ではない「ピカソ」も「わたしたち」ではない「わたし」のスペースをもっと拡大しなければ「わたし」は他人の誰かの陰に隠れたままイワシやミツバチのように終わるそれもまっとうな生き方の一つではあるけれど

Tarafından yayınlandı

Takashi

Takashi'nin kişisel blogu。Sadece resimlerle ilgili değil、Her gün düşündüğüm şey、ne hissediyorsun、aklıma ne gelirse yazarım。Bu blog üçüncü nesildir。Başlangıçtan bu yana 20 yıldan fazla zaman geçti.。 20231 Ocak'tan itibaren、Şimdilik sadece tek sayılı günlerde yazmaya karar verdim.。Gelecekteki yönüm ve diğer şeyler hakkında parça parça düşüneceğim.。

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