パルスオキシメーターを買った

メディニラ 水彩・ペン・ファブリアーノ紙

パルスオキシメーターを買ったしばらく前から買った方がいいかなと妻が言っていたがとうとう買ったようだ(中国製日本製は高くて買えなかったらしい)パルスオキシメーターは心拍数と血中酸素飽和度を測るもの最近は特に人差し指の先を挟むタイプのものをメディアでよく見かけるアレ運動選手は負荷を確かめながらトレーニングの内容を決めたりするのにも使っているらしい

買ったその日は家族全員が代わる代わる指を挟むハサむわたしは酸素飽和度が高くほぼ99%でもなぜか心拍が弱い(逆に心臓が強いからそんなに拍動しなくてもいい?)ように見える(視覚化される)そのうえなぜか人差し指だと「心停止」してしまう小指なら生き残れる息子の指はわたしより太いのにちゃんと人差し指で測れるから指の太さのせいではないコレフシギナリ「心拍数」はわたしの場合安静時ならほぼぴったり60(それがペースメーカーの仕事)でも翌日からもう誰も測らないわたしもそれが今どこに在るのか知らないこれでいざという時役に立つのか—立たないね買っただけ持っているだけの安心感の好例を更新

コロナ禍で入院したくても自宅療養せざるを得ない人が自分または家族が現状を把握し適切に医療機関に連絡する際の重要データとして「酸素飽和度」がひとつのキーワードになっていることをメディアは再三取り上げていたその影響で買ったわけだが一時はこの器具が品薄だったという皆同じことを考え同じ消費行動に走ったということはかつての「トイレットペーパーの争奪戦」とおなじ構図だと言われているその時は「どうせデマがデマを呼んでいるだけだ」と冷静でいられた我が家がそれが今回ということは教訓が生かされていないというより「前よりバカになった」ということになると思う

パルスオキシメーターは「バカの程度を測る器具」ではもちろんないが見ようによってはそういう装置とも受け取ることができるかつてトイレットペーパーを山と積んだ人も結局はすべて費消できたと思うけれどパルスナントカはどうか場所を取らないことが(すでにどこにあるかさえ分からないのだから)せめてもの取り柄ではあるが

Kiss

Kiss (CG合成)

昼食を終えちょっと出かけようと玄関に立ったら鏡に一本の百合が写っていた絵のモチーフに使ったやつだが最初の花はすでに萎れて切り取られそのとき蕾だったものが咲きそれもまた萎れて鏡に寄りかかっていた

「自分自身にキスしているようだ」直感的に脳裏に画面が浮かびスマートフォンで写真を数枚撮った背景などに若干の加工を加えたいつか作品にしたい構図だ

「ナルシス」というテーマも浮かんだがナルシスなら水仙だろうからそれはやめた状況から言えば「諦め=despair 」やもう少しロマンティックに「good-bye」などのタイトルにしようかと思ったがやはり最初のイメージに従ったふとなぜか自然史博物館で見たクジラの全身骨格を思い出した

アジサイ in ブラック2—反射神経

花の部分(CG)ーけっこう写実的に見えるのではないですか?

さらに拡大(CG)ー実はけっこう大ざっぱです

仕上がりまでの3割くらいまで進んできた途中で気にかかっていたのは「こんな面倒くさいことしなくてももっと簡潔で効果的な方法があったのではないか」ということ手間を惜しむわけではないがまわりくどい方法は時間の浪費ばかりではなく画面を汚し狙い通りの効果を生み出せないことにつながる「簡潔」が絶対にいいのである

反射神経だなそれは—必要な時にタイミングよくピッタリのやり方を選択する「勘」のようなもの

年を取ってくると直感的な閃きが薄くなりそれをじっくりと計画を練り上げることでカバーするようになる(なってきた)これは反射神経が鈍くなってきたということではないか…描いていてふとそう思い当たった

じっくりと練り上げる方法が悪いわけではもちろんない浅はかな思いつきだけでイメージにとびつくよりよほど結果は安定する野球選手の打率ふうにいうと「思いつき」の打率が1割なら「練り上げ」は3割弱というところか打率1割台ならレギュラーは難しいが、3割なら堂々のクリーンアップである普通の仕事なら間違いなく「練り上げ」の方が良いでもアートではどうなんだろう打率1割でもその一本が心に残る魅力的な一本というのがアートの本質なんじゃないだろうか反射神経を研ぎ澄ますにはそのための鍛錬が欠かせないやばいぜ