
目が覚めたらテレビがついていて、サッカーワールドカップ決勝を放送している。シーツを敷くポーズのまま布団に突っ伏して、どうやら眠ってしまったらしい。LIVEかどうかさえおぼろなうちに、(フランス対クロアチア戦)フランス3点目。直後に追加点。さらに目を白黒させているうちにクロアチアが得点して、4-2。
不思議な感覚。目が覚めたらいきなり決勝のクライマックス。見たいとは思っていたが、放送時刻が遅く、あえて見ようとはしていなかったのに、なんとラッキーな。私、本当に少し元気になってきたんだな、と思う。
目が覚めたらテレビがついていて、サッカーワールドカップ決勝を放送している。シーツを敷くポーズのまま布団に突っ伏して、どうやら眠ってしまったらしい。LIVEかどうかさえおぼろなうちに、(フランス対クロアチア戦)フランス3点目。直後に追加点。さらに目を白黒させているうちにクロアチアが得点して、4-2。
不思議な感覚。目が覚めたらいきなり決勝のクライマックス。見たいとは思っていたが、放送時刻が遅く、あえて見ようとはしていなかったのに、なんとラッキーな。私、本当に少し元気になってきたんだな、と思う。
絵画の原点。大げさなタイトルのようにも見えるが、私には次第にハッキリしてきた、と思う。
絵画の「原点」はある意味、時代とともに動いてきた。Takže、ここでいう原点とは、「現代において」である。とはいえ、人間の歴史が途切れることなく続いてきたように、歴史的な「原点」も現代の原点に繋がっていることは当然だ。
「自由に描くこと」。それが原点であり、それが最終的な「理想」である。それを忘れないこと。多くの作家がいて、それぞれ自由に好きなものを好きなように描いている。全ての画家が理想を達成、謳歌しているように見える。が、それは本人を含めて、殆どの場合、「錯覚」である。「自由に描く」ことと、好きなように描くのとは次元が違うことに気づいていないからだ。(この項続きます)
第32回晨春会展(正式名称:晨春会’18展)が始まった、というより、明日と明後日で終了する。月日が流れるのは早い。既に追いつかれ、抜かれてしまっている実感はあるが、まだ微かに背中が見えているような気がする(錯覚?)
絵とは何だろう、と何万回考えたか分からないし、おそらくあと数千回は考えるに違いない。そして結論はたぶん平凡なものだろうと想像する。考えても考えなくても大した違いはないかも知れないし、下手に考えない方が良かったということになるかも知れない。
けれど考え、迷う。きっと、それが「今」を生きているということだろう。以前の絵は良かった、何故あのように描かないのか、とたくさんの人たちから、何百回も訊かれる。そして、それに応えることは今も出来ていない。自分でははっきりとは判らないが、たぶんそこは卒業したのだろう。「この一枚を描くために、それら全てを捨てたのです」と言える絵が生まれてくることを信じて。