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抹茶 -Matcha を描く

「伊右衛門」を描く

お茶を飲んで何気なくそのティーバッグが入っていた袋を見るとなんだかきれいに見えた平らであまり細かい装飾も無く描くには簡単そうに見えた

一見爽やかな緑の地が広く」そんなに文字が多そうには見えないところがどっこい描いてみると文字ばっかりという気持ちになるまず漢字それもいわゆる「明朝体」だ独特のはねたれ留めがすこぶる面倒だそれにデザイナー独自のこしらえがしてあって一文字ひと文字いちいち細かく見比べなければならない

出来栄えは・・・かかった時間のわりにはよくないいろんな意味で描かないよりは良かったまあお昼に豆を引いて飲んだコーヒーほどではないがこの「抹茶入り玄米茶」くらいの味に見えたら儲けもの

GABAN-ブラックペパー を描く

GABANのブラックペパーを描いてみた (CG)

前々回このブラックペパーの途中までを公開した完成作がこれなんだかんだと忙しく気持ちが切れそうだったが何とか仕上げまでこれたGABANのこのシリーズは本当に目にキツイ銀色の袋だ描いていると反射で目が痛くなるが反射させないことにはこの金属的な光沢感は表現できない技術的だけでなく生理的にも厳しいモチーフと言わざるを得ない

そんな厳しいモチーフだがそれがしかしこのGABANのパッケージの魅力でもある透明なもの光沢のあるものはみな魅力的だ両方をほどよく兼ねたものが宝石だといえば誰もが魅かれるわけが納得できる

眼には悪いがあと数回は「銀紙」を描くつもりだできれば見なくても描けるくらいになるのがいい(単体の「サランラップ」を描くほどの「勇気」はまだ無い)見ずに描ければ“健康被害”も無いからね(これは冗談)透明なやつもあと数回はたとえばガラス細工とか・・・金色もステンレスとか何枚も重ねたラップなども候補だだんだん欲が出てくるけれどこんなの描いたって(技術的な興味以外には)意味ないかも――なんて考えちゃダメだな――油絵だって水彩だってピカソだってレオナルドダヴィンチだって面白かったらやればいいし結局は面白かったから描いたまでだろう

14世紀フランドルの画家ロヒール・ファン・デル・ウェイデンが「キリスト降架」で慟哭するマリアの「透明な涙」を描いたときの他の画家たちへ与えた衝撃をいま追体験することは困難だその衝撃が17世紀のフェルメールに繋がりレンブラントに繋がり、19世紀ドラクロアから印象派につながる「津波」だったことは当のロヒールだって想像もしていなかったに違いないから―――余計なことは考えないことにしようっと興味がなくなるまで描けばいいだけのことなのかな

ネット社会と「わたしの意味」

GABANのブラックペパーを描く (制作中)

午前中はソーシャルネットワークの中での自分のことを考えていた。İşte、そういう世界の中で自分の生きていく意味を家族のためというのはあるがそれ以上の自分の意味というものがあるのかどうかこれまでも何度も考えてきたことだけれどどう考えても意味が見えてこない要するにこのネットワーク社会のなかでは自分の生きる場所がないのだ

良くも悪くもわたしは一人でいる方が楽しいもちろん私は人間嫌いというほどではないそこそこ誰とでも付き合っていける(だろうと思っている)けれどその一方で誰からも相手にされなくても特に孤独に悩むということもないだろうと思う「人間は一人では生きていけない」とよく言われるがそれなら大勢の中で自分の生きる場所を失い自殺する人々をどう説明するのだろうか一人であろうと他人の中にいようとそんなことはたぶん本質的なことではないのだどこであろうと死ぬときは死ぬその場所が森の中であろうと病院であろうとましてや「自宅」であろうとそんなことはどうでもいい

祖父は臨終の少し前しきりに自宅に帰りたがった周りにいる家族は皆噓をついてとうとう病院で死なせた祖母も父も母も病院で死んだそのほうが家族にとって「便利だ」という以外に少なくとも本人にとって何の意味もないことはよく解ったそして「(自分の)死は自分一人で向き合うべきだ」とも考えたこれからはその方法をしっかり考えておかなくてはならない

GABANのブラックペパーを描いている机の上においてもう1ヶ月になるその間に他のもろもろを描きついつい後回しになった描くのは「銀色」の「反射」微妙な周囲の色を含んだ「無色」をどう描くか「ポカリスエット」を描いたとき意外に簡単だったのでそれがマグレなのか確かめたいこんなものを描いてもそれがお金になるとき以外に誰も関心など持たないすべての「意味」などきっとその程度の意味しかないから絵が描けるんだろう