春は廻る

「桜とメリーゴーランド」 水彩

YouTubeに意識的に時間と体力を注ぐようになってまる1年半が過ぎましたその前の約一年間は YouTube 自体にほとんど興味もなくあとできっと必要になるからと言われたことと急いで iPadに慣れる必要があったのでiPad で絵を描きそのプロセスを簡単な動画にしてアップロードするという練習だけで過ぎていきました

「普通の動画」を作れるようになろうと「意識的になった」この1年半の間に視聴回数は3000回から60000回へチャンネル登録者数は30人くらいから600人以上まで約20倍になりました始めた頃のわたしなら「凄い」と喜べた数字ですでも 現実的にはこれは「あなたはYouTubeに向いていません」という宣告にも等しい数字なんだそうです確かに18ヶ月かけて20倍じゃ単純にやった分しか増えてないってことですもんね人が人を呼ぶいわゆる加速度的なカーブじゃないとダメってことです

YouTubeで「成功」というためにはわたしの場合現在のさらに100~200倍の視聴回数・登録者数が必要なんだそうです!それがどれだけ距離感のある数字かわたしにも今はだんだん分かってきました
 趣味だと割り切れれば別に構わないことですが教室的に何か役に立たないかなあとおぼろげに考えていたわたしは考え方を変えなければならないことになりました時間と体力の消費が大き過ぎるのです絵を描く楽しさを伝えたいなんて思っていたのにそのためにわたし自身が絵を描く時間を失ない眼を悪くし(これは加齢のせいか)時どき鬱に陥ったりしているのですから文字通りの本末転倒です

せっかく始めたYouTubeをやめたらいいんでしょうかまだちょっと勿体ない気もします「成功」なんてもともとできるとは思っていなかったけれどちょっと「役に立つ」くらいはまだ生かせる余地があるんじゃないかなんて未練がましくさらに深みにはまりそうな気もしますし
 しばらく気分転換が必要かもしれません暦の上ではまだ冬ですがもう数日で「立春」です先ずは桜の花でも描いて自分を楽しませてやろうと思っているところです

ちゃんねるが合わない

12日ぶりにビデオをアップしましたお時間あればご覧いただきたいと思いますブログも8日ぶりです記事を書くこともあったし体調が悪かったわけでもなかったのですがアップして読んでもらいたいという気持がまったく起きなかったんです

たぶん多くの日本人(90%位?)が持っているようなごく軽い鬱をわたしも持っていると思うんですそれが時々顔を出すんでしょうするとなにをやっても無駄だという気持になってやりかけのことも投げ出したくなってしまうその一方で「軽い」というのはいい音楽を聴いたりいい絵を見たりするとすぐに元気が出てきて「もう少しだけ先へ進めようそれから止めよう」とも思えるからです

昨年いっぱいで作品発表のほとんどの場から身を引きました大きく見るとわたしはどんどん「社会」から後じさりしているようです社会の中へ出ていくこと社会と関わっていなくては生きていくことが難しいように世の中は作られているのですがなるべくなら一人で居たいという性格は子どもの頃からあまり変わらないようですかといって一人で畑を作り魚でも釣って自給自足するほどの知識も能力もなく単なる願望にすぎないので本当に一人で生きていくこともできません

現在は絵画教室がありそれがなんとか社会とつながる接点です絵を描かない興味のない人たちと接点を持つことがほとんどありません社会との絵以外での接点を広げるような努力はまったくしてこなかった(絵でさえも積極的ではなかった)そういう意味でわたしは社会的「不適合」者だと自分を位置づけていますたぶん「不適格」ではないと思うけれど繋ぐことが上手にできないタイプなんでしょうね(「絆」なんて言葉も嫌いだし)
 決して人間嫌いではないけれど社交好きではないファーブルやシートンが好きなのはそういうところがああるからかもしれません。Mutta、日本ではそういう人が増えているんじゃないでしょうかつまり一方でSNSなどで人とのつながりを求めつつ一方でそれぞれが一人になりたがっているそのジレンマの中で誰もが「軽い鬱」を持っているつまりわたしのような人はごく普通だと言っているわけですけど

できることから-2

「できること」は人によって違うそんなことは常識だけどそれは言葉だけでわたしなどはつい「(人と同じ程度のことは)自分にもできそう」な気がしてしまう「人と同じ程度の」の「人」ってどんな人のことなんだろう「同じ程度」ってどうやって計るのかなんて考えずに漠然とそんな気になっている

歌を歌う楽器を演奏する魚釣りをする山登りをする詩を書く料理をする・・項目を挙げればきりがないがどれをとってもプロ級に上手な人もいれば不得意な人もいる。mutta、「普通」とか「人並み」ってどの程度なのか誰にも判定できない(のではないかと思う)なんとなく「自分の中の平均値?」に照らしているだけ経験がなければそれさえ作れないはずなのになぜか(神のように何でも)分かっているような気になっていたりするどうしてなんだろうか

一種の「情報・知識」があれば「知っている」ような気がするんだろうね知識の中には「他人の失敗」というのもある自分はそれよりはちょっとマシかなというヤツそうすると「できること」というのは一定の知識がありしかもそこそこ「自分はもう少し上手くできる」くらいの自信があるものということになるのだろうか

未経験のことならできるかどうかなんてやってみなくては本当は分からないできても出来なくてもやってみれば何がしかの手応えがあるそれを基にできそうだと感じたらもう少し深くやってみるそういう意味なら「できることから」ではなく「出来そうなことから」にタイトル変更だ。toisaalta、いろいろやってみてどれも薄い手応えしか得られなかった経験者からするとその(薄さの)濃淡から「とりあえずこれなら」という感じで「できたことから」になるのだろうか
 最近「なんでこんなことができないんだろう」と頭を搔きむしることが増えたそれが髪の毛が薄くなったのと関係があるかないかは知らないが本来やるべきことを忘れてこんなどうでもいいことを妄想していたこれじゃできることもできなくなるワケだよね