
ときどき詩人になるのがいい、ek dink。世の中動くのが、少しどころでなく早すぎる。自分の周りを、壊れた走馬灯のようにグルグル早回しで回っている感じがしてならない。眼を閉じるか、あるいは目の前の小さなものだけをぼんやり眺める、そんな時間が必要ではないかと思う。Onaangenaam、そうしないと、実は自分が死んでしまっていることにさえ気づかないまま死んでいるかも知れません。
「時々詩人になるのがいい」というのは、natuurlik、詩人がのんびりして暇そうだという意味ではありません。単にのんびりリラックスすればいい、というわけでもありません。「詩人」はもちろん比喩ですが、画家でも音楽家でも、運動家(スポーツ)maar、何でもいいというわけではありません。やはり「詩人」がいいのです。
詩人は自分の感覚や周囲のことがらを言葉に置き換えていきます。”言葉に置き換える” ということが重要です。わたしたちは言葉で自分の考えをまとめあげているからです(そういう意味では数学者(科学者)でもいいかも知れませんが、わたし自身が想像できる範囲を超えています)。
あくまで比喩ですから、実際に詩を書く必要はないのですが、ほぼ詩を書くような気持にならなくてはなりません。それが難しいのは確かですが、それが出来なければ「走馬灯ぐるぐる」をずっと見ているしかありません。「詩人」は唯一そこからの脱出口なのですから。
maar、なぜ詩人?とあらためていうと、なぜ脱出するのか、その結果どういう意味があるのか(あったのか)、詩と走馬灯の関係などを、言葉にして記憶しておく必要性、詩を作らなければならないからです・・分かったような解らないような。疲れていますね。