見る

Apple

「見る」ということが(見るだけでなく全てのものがそうだろうが)複層的な構造をしているということは誰でも経験的に知っている複層的とは「見る」にも生理的以外に心理的な面など(むしろそちらの方がここでは問題だ)たくさん意味があるということ味を見る調べる検査する試行する考えるなど「見る」にもたくさんの意味があり私たちはそれらの意味を意識的無意識的に切り替えて「見て」いるということ

なあんだ国語の問題ではないかという人もいるだろう。але、私たちが絵を描き絵を見る時あるいは音楽を聴く時でも音に反応し色に反応し作者を知ればその知見がまた反応にフィードバックしその度にまた新しいものが見えたりせっかく見えたものが失われたりする現実の「見る」ことに直面するわけで決してたんに言葉=国語の問題として済ますことはできない

そういう意味で絵を「見る」ことは(難しいということではなく)単純なことではない描くこととほとんど変わらないのではないかとさえ思える描く方がむしろ絵の具の取り扱いやその他のことに取紛れ対象も画面もろくに見ていないことさえあり得る

その上であらためて「単純に見る」ことの意味を考える

ビジョン

「Apple」習作

絵画とは「ビジョン」だけで完結するものかも知れないビジョンとは「見えることもの」をいうそれを「画面に定着」することは必ずしも必要でないそういう意味ならすでに映画やビデオがある、Дакладней、もっとラジカルに仮に言葉で聞き手の脳に像を描かせることさえできればそれを絵画と呼んでいいのではないかという意味で

あるいはビジョンのリアリティと言っていいかともむしろ絵画にとってはこの方がずっと重要で「見る人にとって」リアリティの無いものは絵画ではないと言ったらどうだろうか当然リアリティとは何かということになるがそれは「見る人」次第ということになる作者はどこへ行ってしまうのか?それでは不特定多数に対して発表する絵など描けないではないかいや作者は作者で見る人のことなど考えずに自分のリアリティだけ追求すればいいのだ作者と見る人の関係が断絶していることにおいて初めて本当の関係が成り立つのかも知れない…などとぼつぼつ