60歳からは余生?

新生(制作中) 変30 MX 2011

車を運転しながらたまたまラジオをつけたら作家の森村誠一(懐かしい名前だ)が60歳から先は余生だとインタビューで話しているのが耳に飛び込んできた

ということは60歳までに少なくともメインの何かを成し遂げていなければならないということなのか?あと12年で森村流の「余生」帯に入る自分としては!!!とならざるを得ない。પરંતુ、今の今実際に成し遂げたものなど「何も無い」というのが事実だし怖ろしいことにその先も何も見えないまま余生の「余」が「あまり」の余「余裕」の余だとしたら私の人生はこの時点でゼロどころかマイナス人生だってことになってしまう

確かにダ・ヴィンチラファエロピカソなどは皆60歳どころか30歳までには美術史的にも大きな業績を残している森村氏自身もこれまで380冊だったかの本を書いてきたらしい(森村氏が何歳だったか忘れたが60歳はとうに過ぎていると思う)余生の間にあと50冊は書くと言ったように記憶している一生の間に一冊の本も書けない人がほとんどだと思うと確かに怖ろしいほどの業績だと言えるだろう

60歳に何か特別な意味があるとすれば定年退職だろうか?でもそれはほぼサラリーマン限定の話だし近年は定年もばらばらになってきているらしい定年を一つのゴールとすれば余生という考え方も生まれてくるが森村流はどうもそうらしい

では自分流は?うーんこれから考えるって言うんじゃちとマズイとは思う思うものの急に何かを始めるわけにもいかず結局はいまやっていることを続けていくことしか無いだろう余生などととても言える心境ではないゴール無しの人生終わった時がゴール「余生」の無い生き方が自分流かなと考えた 2011/11/05

 

 

 

こども作り大学?

「こども作り大学」の看板を大学の建築学科棟で見た一瞬「えっ?」という感じ少子化でいよいよ建築学科でも受精や妊娠障害の研究でも始めるのか?目をこすってよく読めば「こどももの作り大学」紛らわしい看板にちょっと驚いたぞ

これが生涯学習講座の替わりにやりたいことの一つらしい目的はともかく方法論や先の展望も無いまま見切り発車して赤字増産の責任を下へ下へと垂れ流すいつものパターンでスタートするようだ一種の子供囲い込みを画策している訳だがそんならいっそ本当に「こども作り大学」からスタートした方が確実かも知れない

入学時の18歳までの学力の差に比べると、18歳からの可能性の方がはるかに大きいと思うしかし日本では18歳の学力差である意味では一生取り返せない差に分けられてしまう会社も一度辞めるとすぐに社会の底辺に落ちてしまい滅多なことではそこから這いあがれない日本社会「諦めずに何度もチャレンジ」と学校でも社会でも掛け声だけは大きいが本気になってそれを可能にするシステム・政策を作ろうなどとはしていない切り捨てるだけただ単にコストとしてしか人を見ない人がどれだけの力を持っているかについて想像力を失ってしまったかのようだ

そんなわけで三流大学になるとそのレッテルを嫌って学生が来たがらない定員を満たせない大学は必死に学生をかき集めるいつのまにか学生一人が「個性」や「可能性」ではなく「授業料」そのものに見えてきても不思議はない

学生が授業料にしか見えないような大学ならさっさと退学し一冊のスケッチブックを持って世界を見学して回る方がよほど有効な「授業料」になるかもしれない「こどももの作り大学」で小学生時分から将来この大学に親しみを持つように刷り込みをするなどなんて浅はかで馬鹿馬鹿しく情けない発想だろう文科省による近年の理科系科目へのこどもの誘導策も同じ次元の発想だこどもは大人ほど馬鹿ではないことを知らない国は亡ぶしか道はない  2011/10/23

 

 

 

 

 

 

 

Modern art American

Astronaut F4 2011

モダンアート・アメリカン展を国立新美術館で観たヨーロッパ直輸入の時代から次第にアメリカの風土性が強くなりやがてヨーロッパとは違う独自の道を歩み始めそこに自信を持つに至るプロセスを分かりやすく並べてある

ジョージア・オキーフという女性画家(写真家アルフレッド・スティーグリッツの妻でもあった)大画面に蘭などの花の一部分だけを特にクローズアップして女性性器かと一瞬見紛う表現などで知られているその写真的な手法など一流の写真家であるだけでなく現代美術の隠れた天才ディレクターでもあったスティーグリッツのアイデア戦略そしてオキーフの感性を見抜く目を抜きにしては語れない(はず)

そのオキーフの作品が3点ほど出ているどれもあまり大きくないがそのうちの20号ばかりの一枚の枯れ葉を描いた作品に特に魅かれた前面に一枚の大きな白っぽい葉その後ろに赤茶けたもう一枚の葉が重なっているさらにその後ろの葉と全体で3枚の葉っぱを描いているだけだ前面の白い葉の一部にそれが枯れ葉である証拠の乾いた亀裂が入っているのがこの絵の核だと思う背景も白色彩は主に白と茶色の葉それに背景の白だけの単純さでモダンアートの旗手の一人としてはむしろ地味な絵だ

多分実際にきれいな色の葉っぱだったのだろう何となく拾い上げて手に乗せて見た普通ならそのあと捨ててしまうか描こうとして持ちかえっても結局描かずに捨ててしまう。જોકે、そこに長い一本の亀裂がオキーフの目を捕えた何かが閃いてそれが絵になった葉も大事だがこの亀裂が絵の核だというのはそういう意味であるもちろんこれは私の勝手な空想に過ぎないけれど絵というのは往々にそうやって生まれてくるものだからだ

エドワード・ホッパーの絵にも魅かれる男が座っている何でもない光景だしその前にもその後にもたくさんの男も女も座っているのを見ていた筈なのにその時その場所での男がホッパーに突然の閃きをもたらしたのだその男をあえてモデルに雇ったとしても描く気持になったかどうか(制作にあたってモデルを使ったかどうかは関係無い)

クリフォード・スティルこれら世代は異なるがアメリカの絵画はモダン時代の最先端というイメージが強く日本人が真似るとことさら新奇激しさけばけばしさなどを強調するが実際に見ると案外に地味なのであるその発想も自分自身に発していてむしろ謙虚で素朴というモダンアートのイメージと矛盾した言葉さえ浮かぶ日本人はアメリカ絵画の本質をどこかで見誤っているのではないだろうか絵画の本質はレオナルドの時代でも現代でも変わっていないような気がする日本でもアメリカでもそういう大事なことを教えてくれる展覧会かも知れない 2011/10/16