「クジラのようなもの」を喰う-2

今日もとりあえず練習

„Работите како...“ се само、Во облик на малку поголемо рибино филе、бојата е речиси црна。да、„Кит...“ се продава во Босо и на други места.、Блиску е до тоа、Центарот е малку подебел。На прв поглед изгледа како едноставен леб на пареа.、Изгледаше дека може лесно да се изеде。

Има и работи кои личат на тенко исечени печурки таму.、Не се разликува од голтка、Фрлете го тајно。Впрочем, таа кутија за ручек е во аголот на градината.、Не знам колку време е оставено таму (фрлено?)、Половина е исполнета со кал.。

Колку и да е мисија,、(Лицето кое ја даде оваа мисија беше、со десетина деца、Има мешање на возрасти и полови, од градинки до студенти.。Не ја знам врската меѓу тие деца.。(Сите се деца што не ги знам.) Не сакам да умрам од стомачна болка.、Беше неизбежно тајно да го фрлив.。Даичи、Мисијата е да се изеде „китот...“、Тоа не е печурка。

Овој сон ќе продолжи и утре。Изгледа дека ќе трае долго、извинете。

 

絵画教室の人々ー5

「休憩時間(部分)」水彩
「休憩時間(部分)」水彩

※これは架空のお話です。

一度教室をやめて、また戻ってきました。

特にやめる理由も無かったように、はっきりした理由があって戻ったわけでもありません。強いて言うなら、クラスの人に戻って来なよと誘われた(再勧誘?)からですが、理由になりませんよね。

教室には10年間通いました。ほぼ無欠席。結構大きな絵も描いたんですよ。но、コンクールなどには出しませんでした。先生も特に出せとも言わなかったし。自分としては少しは出したい気もありましたが、積極的でもなかった。いえ、それが不満だったんじゃありません。но、Некако、少しずつ風船から空気が抜けていくように、すうっと気持ちがなくなったんです。

体力はありますよ。во ред、во ред。教室をやめても絵を描く気持ちはあったんですが、ここがなあ、とか言われないと張り合いがないというか。10年間の惰性なんでしょうか。

絵を描かないと、アイデアが浮かぶ。描いてる時は、目の前の処理で手一杯。考えられないんですよね。во、アイデアが浮かぶと描きたくなる。描き始めると、できないところ、ダメなところが案外すぐ分かっちゃうんですよ、自分でも。но、どうしたらいいかが分からない。それを放っておけないんですよね、性格っていうのか。

だから戻って来たってわけじゃないんですよ。なんとなくね。но、今度はコンクール出してみようかなと思ってます。入選とか賞とかの欲があるわけじゃないけど、ちょっと頑張ってみようかなと。но、入選したら案外もっと上の欲が出てくるかも、ハハハ。

絵画教室の人々-3

「Floating man」(part) 2015
「Floating man」(part) 2015

※実在の個人とは何の関係もありません。架空のお話です。

この年齢になって絵を描いていると、「良い趣味を持って幸せですね」という人と「今更お金の無駄遣いでは?」直接にではないが、そんな心持ちでいう人がいる。сигурно。俺も心のどこかでそんな風に考えることもあるんだよね。

俺もいい歳だし、この先十年も描けるかどうかさえ分からないうえ、描いたからどうだってこともないのははっきりしている。子ども達も口には出さないが、俺の絵の具代で女房に美味しいものでも食わしてくれればまだマシな金の使い方だ、ぐらいに思っているらしい。爺はもうボケ始めて晩酌と絵のことしか頭にないと思っているのだろうが、子どもの考えなんかとっくの昔にお見通しさ。но、あえて喧嘩なんかしない。寂しいもん。

この歳になって、絵も少しは勉強したくなった。考えてみたら、ただ感覚と好き嫌いだけで絵を見たり描いたりしてきただけだから、解らない絵は永久に解らないし、嫌いな絵はただ嫌いだってだけで避けてしまう。でもそれじゃあ、これまでやってきた経験が勿体無いというか、完成しないような気がしてきたんだ。барем、好き嫌いだけで言っちゃいけない絵というものもはあるんじゃないかとは思う。漠然とはしているが、あるグレードというか、走高跳びのバーに似た非情なものがさ。それを見たいよね。

世界は広い。自分の子を芸術家にしようと90過ぎて子どもを作る奴もいれば、90過ぎて美術大学に入学する奴もいる。しかも主席で卒業、大学に残って指導する立場になるなんて…。普通じゃないって言えば普通じゃないが、「絵の世界」ってそんなもんかも知れないよ。俺もその世界の、どこでもいいからそこに自分の墓を建てたいな。

心のどこかでそんな風に考えることもあるんだよね。