

スケッチブックの上にザクロが一個、わたしの帰りを待っている・・ような情景。小さいサイズの絵だから、普段は習作など作らず一発勝負で行くが、この場合、背景がごちゃごちゃしていて整理が必要だという要請と、最近ペンがまた面白くなってきたせいもあって、迷わずエスキース(習作)を作ってみることにした。
結果はそれが正解だったようだ。ほぼ黒の明暗だけのシンプルな背景になった。
スケッチブックの上にザクロが一個、わたしの帰りを待っている・・ような情景。小さいサイズの絵だから、普段は習作など作らず一発勝負で行くが、この場合、背景がごちゃごちゃしていて整理が必要だという要請と、最近ペンがまた面白くなってきたせいもあって、迷わずエスキース(習作)を作ってみることにした。
結果はそれが正解だったようだ。ほぼ黒の明暗だけのシンプルな背景になった。
上の写真は、東京へ絵を運ぶ時にいつも通る、国道4号線にかかる橋からの車窓風景。絵になる場所だなと直感するが、車を降りて取材したことはない。あらためて取材に出かけたらきっと収穫があると思いつつ、その時が過ぎると次の機会まで思い出すこともなかった。
取り立てて「ここが良い!」と強調するようなところがないのがいいのかもしれない。「穏やかな日常」の表現に適当な場所、ということかな。世界は至るところ戦火がひろがっているし、日本の中も災害やSNSなどを使った詐欺事件などで気持ちが落ち着かない。「絵になる場所」、と思った時から10年は経ったかもしれない今になってこういう風景を描くのも、あながち年のせいとばかりも言えない気がする。
庭の椿を3枚ほど描いてみた。これまでに何枚この椿を描いたか数えてないが、少なくとも10枚は水彩で描いているはずだから、ある程度までは見なくても描ける。але、実際に見るとやはり植物も “生き物” だということをいつもいつも強く感じる。「生(せい)のオーラ」がわたしにも降りかかってくる。
白い花に赤い斑(ふ)の入っているのが美しい。花は大きく立派だが、それを支える “首” のところがなぜか不釣合いに細く、花の重さを支えきれない。だから、ほとんどの花が下をむいてしまう。これは “品種改良” 中ゆえの問題だろうが、 “当事者” である椿にとっては「どうしてくれるんだ!」とでも言いたいに違いない。
おそらく、この椿は赤い花の台木に白い椿を継いだものだろう。その証拠に、ときどき先祖返りして、真っ赤な花が全体の中で1輪くらい咲く。木も「血筋」を主張しているんだろうね。Калі вы так лічыце、この赤い斑が一滴の血のように見えてくるから不思議なものだ。