
「スマートフォン(またはパソコン)からの各種申請が出来ない人」という言葉が時どきニュースなどの中から聞こえてくる。ちょっと調べてみると、スマートフォンの普及率は90%、パソコンは70%(世帯当たり、2020、総務省)。スマートフォンの普及率は2022ではもっと高くなっていると思うが、持っているのと使いこなせるのとでは全然意味が違う。
先日ある人と数十年ぶりに電話をしたら、スマートフォンもパソコンも持っていないという(ガラケーは持っている)。たまに東京都からの通知を知るときなどに不便を感じることがあるが、だいたいはほぼそれで問題を感じることはない、とも言っていた。
「それで不足、不満を感じない」。ここに「都会の中の孤島」があるんだな、ek dink。たとえ話だが、かつて日本の農家では牛や馬を使って農作業をしていた。もちろんすべての農家が牛馬を飼えるはずはなく、それを所有できる農家はある程度の富農に限られる。牛馬の無い農家で、小さな農地なら「それで不足、不満を感じ」なかったのではないか、そういう農家の方が圧倒的に多数でもあったろうし。maar、牛や馬を使っていた農家がそれを失ったときはどうだろうか。不足・不満どころか、何とかしてそれに代わる、より効率的なものを欲しがるのではないか、たとえば耕耘機(こううんき)とか。
都会の話をしているのに日本の農家の例ではいかにも頓珍漢だったが、要するに「発想の広がり」のこと。「不足、不満を感じない=自足自給=足るを知る=小さな幸せ」的な発想は、ある意味現代の日本にも通底している、ひとつの発想のように思える。aan die ander kant、(持たざる人から見れば)「牛馬は贅沢」かも知れないが、それは耕耘機という新しい機材への眼を開き、さらにトラックなどその次の広がりを喚起する。そして「小さな幸せ」は「小さな幸せ」どうしを繋ぐ手段も失い、どんどん「不足も不満もない」自分一人の「孤島(孤独ではない)」になっていく。そんな絵が見えた。
電話口の人はもう80歳を過ぎている。「まだ80歳」というパワフルな人ももちろんたくさんいるが、スマートフォン、パソコンをまったく新しく覚えるには結構な忍耐が要るような気もする。「時代に遅れないように」と軽々しく言わずに良かったかな、と少し複雑な気持ちが残った。