


青いカモメの絵画教室の2つのクラスの人の、Sさんは個人練習帳から1枚、Tさんは先日のスケッチ会のものを2枚ピックアップさせていただいた。
Sさんの水彩スケッチは、難しい対象を選んでしまったかもしれない。モチーフの実物も見せてもらったが、ほぼこの通りだった。微妙な色のグラデーションで、そのうえややドローンとした図柄。ひとことで言えばちょっとデザインが良くないのだが、それはSさんのせいではない。しかも描くために選んだのではなく、必要で買ったものを描いたまでのこと。よく描いてある。このような素材を、時間を括りだしてはコツコツと自らの練習台にしている。継続は力なり、をかならず体験するはずだ。
Tさんのスケッチには、子どもの絵のような楽しさがある。本人的にはともかく、一見遠近法を無視したような描き方が、そんな感じを強く引き出している。透視図法的な感覚がしっかり身についていないせいもあるが、仮にきちんと正確な図法で描かれたら、この面白さ(不思議な空間体験と言えばいいんだろうか?)がもっと出るかと言えば、たぶん真逆だろう。絵画の奥深さはじつはこういうところにある、ek dink。
写真のように正確な描写、技法・図法・色彩理論などの正しい理解、それは確かに人を納得させるには必須の条件だった。少なくとも多くの人々が比較的「無知」であった近代までは、視覚を通して“教育”するのが絵の役割の一部でもあったからだ。「客観性」がなければ教育は説得力を持たないから当然である。
ところが、現代では「人間というものはよく解っているようで、実はよく解らないところがある(変な)生き物だ」ということが、以前よりずっと分かってきた。人間への理解が深まるほど、一方で謎はむしろ深くなってきたのである。やや極端な言い方をすれば、明日、自分が何を考えるかは、その時になってみなければわからない。「客観性」と「主観性」の境目が再び曖昧になってきているということでもあるだろう。
そのような人間理解のなかでは、「人間の物の見え方は透視図法だけが正しい」などと主張する方が「正しくなさそう」である。透視図法や写真的正確さは、比較的説得力のあるひとつの表現法だ、と考えておくのがせいぜいで、そこにこだわって良し悪しを判断するのは適切ではなかろう。もちろんSさん、Tさんの描き方が正しいという言い方も、同様の意味でおかしい。―これは確かにわたしの絵だけれど、まだ「わたしはわたし」と言い切るまでの自信はないわ、とそれぞれの絵が小声で語っているのも正直で好ましい。