ソル・レオーネ

ソル・レオーネ

イタリアの缶詰らしい日本語のラベルがあるから日本向けなのだろう食べたことが無いので味は判らないが料理好きな人なら使えるのではないか我が家では料理好きな人は誰もいないから使うことはなさそう

なぜ買ったかというとただ単にスケッチに向くと思っただけ缶詰や缶ビール缶コーラなどこれまでにも何度も描いているがやはりこれも難しいと感じた難しさのモトは何と言っても「正確な楕円形」が描けないことこうやってみるとやっぱり歪んでいるのが判る

満々中に対象物を置かないかぎり対象物と左右の眼との距離はそれぞれ異なるわたしが右利きのせいか左側の円弧はまあまあ一発で描けるのだが右側は描きづらい上から下という動作と左から右そして反転という動作が重なるからだと考えているが要するに右側の円弧がうまく描けない誰にでもこういう癖のようなものがありあって当然だがこういう工場生産で出来るものはぴったり左右対称でないと説得力がないだから何度も逆さに見たりして歪みを修正するのだがそれでもこんなふうに歪んでしまう

展覧会の終わりと美術展のオワリ 

会場風景

銀座・ギャルリー志門でのグループ展「風土に生きるⅧ」展が16日終了しましたコロナ下わざわざおいで下さった方ありがとうございますわざわざお電話お葉書など下さった方、tänan teid。

展覧会の期間中六本木の国立新美術館で二紀展独立展や前々回紹介した個展などいくつかの個展グループ展も廻ってみたどれも力いっぱい頑張っているそこに注がれる膨大なエネルギー素材の量資金そして多くのあらゆる種類の犠牲そして得られる小さな自己満足程度の喜びと僥倖のようなほとんど社会性の無い内輪だけの称賛「健気」という以上にふさわしい言葉があるだろうか

「わたしの個人的美術史では美術の歴史はすでに終わっている」とずっと前に書いたあらためてそのことを確認した誰もが絵を描かなくなるという意味ではないそれどころか10年後には絵を描くことはもっと手軽になり誰もが暇つぶしに描くようにも思う終わっているのは「もう付け加えることがない」つまり美術史的には巻末まで来たということと(少なくとも現代の日本的な)美術展という形式のこと

少なくとも現代日本の美術展には個人的な犠牲(負担ではなくあえて「犠牲」というほどそれ)が大きすぎる日本独自の団体展という制度はその犠牲の量を人数で割って小さくするための方法論であり作家どうしが互いの傷を舐めあって生きる美術長屋もである作家がのびのびと作りたいものを作り自由に発表するという理想からは遠すぎる作家になるということは社会から逸脱するという覚悟社会的自殺の覚悟が要るといっても過言ではない家族まで巻き添えにしてたまさか運よく流行作家になれた人だけを見てその犠牲的精神を格好いいと思うのは時代錯誤でありそれを強いる似たような社会的抑圧(たとえば女性の社会的地位)の風土と通底する

いまはインターネットがあるインターネットがそれらの問題を一挙に解決するなどという妄想はさすがに妄想家を自認するわたしも持たないが最低でもその一部を軽減してくれる程度の力はすでに持っている創作の厳しさ(努力)と身体的社会的犠牲とを混同してはならない創作の厳しさは自分自身が解放される場所からでなけれ乗り越えられないと思うからである

Yasuo Ishimaru isikunäitus

Yasuo Ishimaru näitusepaik 12. oktoober 2021 Galerii Natsuka 11.10. -10.10

10/12(Teisipäev) Pilves ja siis sajab vihma。Väljuge varakult galeriist, kus meie grupinäitus toimub、Otsustasin koju minna pärast seda, kui olin näinud hr Yasuo Ishimaru isikunäitust Kyobashi galeriis "Natsuka".。

Hr Ishimaru on pärit Yamaguchi prefektuuri Shunani linnast。Shunani linna rannikul asub kauge saar nimega Ozu saar。Vaikse ookeani sõja ajal on Jaapani veealuseid enesetapurelvi、Seal oli treeningbaas inimeste torpeedole "Kaiten"。水面下に主要構造物がある基地の特殊性から来る海(水)とコンクリートとの親水性そこに染み出てくる鉄筋の錆のイメージ。See on töö motiiv、Ma kuulsin temast juba ammu。

Enne Kokugakai liikmeks saamist、Paksu ploki jaoks, mille paksus on 30 cm、Õrna ebatasasusega、Vala helesinine vesi ja peatu、Väljendite jaoks, mis süvendavad värvi järk -järgult, hoides seda voolavana、Oli aeg, kui alapealkiri oli "Ozu saarelt"。Olin ka lapsena relvahuviline、Alapealkiri oli näpuotsatäis。そしてその年代にふさわしい年配の作家を想像したが石丸さんはわたしよりずっと若い作家である髪の毛もいまだに黒々ふさふさだ。Sellest ajast alates on härra Ishimaru töö、Millise filosoofiani see viib?、Kuidas iseärasust motiivina modelleerida、Olen seda huviga näinud。Tema ilme ei ole oma päritolult raske ega kerge ja siiras、かつ現代に生きる若い人の感性とをクールに調和させて来ているように思える

Kui sisenete näitusepaika、Arhitektuuri sees (samuti nagu tempel), mis vajus madalasse vette、Joonista marmorist seintele ja põrandatele、Tundsin, et vaatan lainete ja valguse igavest mängu。Madala vee tunne、Sellest ajast, kui olin tema tegemistest teadlik、Ei muutu kunagi。Kui külastasin、Vihma tõttu olin ainus publik。Tema maal on vaikne maal。Sukelduge suvesse merre、Kiikumise ja ujumise tunne。Millist muusikat (heli) kuulate tootmise ajal?、Mõtlesin, aga jäin vahele。