
立冬。暦の上では今日から「冬」。だけど先月末頃から何度か急に寒くなる日を繰り返したので、気分の上ではすでに冬。セーターも着ているし。11月にセーターを着るなんて数年前なら考えられなかったが、筋肉が無くなってきたぶん、熱源も失われたということ。もう少し筋トレをして筋肉つけなくちゃ。
一日のスタートは、夏も冬も、温めた一杯のミルクから始まる。飲みながらのスケッチで手をほぐす。冬の朝日を描きたいが、早起きは苦手。雪があれば夜明け前でも起きていけるんだけどな。雪が恋しいまま冬に入る。

立冬。暦の上では今日から「冬」。だけど先月末頃から何度か急に寒くなる日を繰り返したので、気分の上ではすでに冬。セーターも着ているし。11月にセーターを着るなんて数年前なら考えられなかったが、筋肉が無くなってきたぶん、熱源も失われたということ。もう少し筋トレをして筋肉つけなくちゃ。
一日のスタートは、夏も冬も、温めた一杯のミルクから始まる。飲みながらのスケッチで手をほぐす。冬の朝日を描きたいが、早起きは苦手。雪があれば夜明け前でも起きていけるんだけどな。雪が恋しいまま冬に入る。

バーチャル、フェイク、AIという単語に慣れ過ぎて、既に「そういえば昔聞いたなあ」感がある。それにSNSとかYouTubeも加わるだろうか。とにかくそういうものが当たり前すぎて意識すらされなくなってきている。
но,、それらはみな「画面(モニター)上」にあるものばかり。世界中の美味しい食べ物も、美しい自然の景観も、憧れの有名人もみなモニターの上だ。何万もの「いいね!」がついても、食べることも、その空気を吸い込むことも、その人の手を握ることもできないし、それを「共有」するという幻想もまたモニターの上。
自分の目の前に在るのは少し固いキャベツの千切りにアジフライ、ところどころ剥げかかってきたカーペットだったり、ちょっと?くたびれた妻や夫であったりだが、それらはみな、自分の手でさわることができる。自分の身体と直接繋がっている。
バーチャル、フェイク、AIもYouTubeもうたかたの夢に過ぎない、とまでは言わないし、そこに大きな価値があることもある程度は知っている。ウーバーイーツで頼んだものでも、届けばちゃんと手でさわれ、美味しく食べることができる。シークレットサービスが唇の前に人差し指を立てても、それを誰かの飛行機が到着する前にSNSで知ったたくさんの好奇心がカメラを構えて待っている。うたかたの夢どころか、それが現実の一部であり、その仕組みに「さわれること」はむしろ危機を生む。
でも、さわれないことはやっぱり、嘘を生みやすい。
手でさわれるものには信頼感がある。それは単なる感傷ではなく、生き物の知恵の塊だったから。一方、一見さわれるつもりでいる、たとえば調味料の成分、○○酸◇◇だのには実際はさわれない。だから嘘が混じりこむ余地がある。自分で買った昆布や椎茸、鰹節でつくった出汁なら、嘘の入りこむ余地はずっと小さくなるだろう。
紙にペンで描いても。デジタルで描いても、どちらも絵であることは間違いない。けれど紙に描いた絵は、紙もインクも手でさわれるモノであるのに対し、後者はデータ(数値)というさわれないものが、絵という仮面を被っているという違いがある。―蛇足だが、「紙に描いた絵」だって「絵に描いた餅」という仮面ではないか、という一種の混ぜっ返しは、この場合論理的に正しくない―
なんでもアナログが良い、などと言うつもりはない。それぞれにそれぞれの場があることが大事だなあと思う。

柿は美味しい。夢中で食べてしまってから、アッ、今の描いておくんだったと、もう最後のひと切れが喉の奥に落ち込む直前になって思いつく。なんでもそう、目の前のことだけになってしまってはいけない。
トランプと習近平が、いま激しく角突き合わせているトランプ課税をめぐって会談した。トランプによれば「10点満点中の12点」で合意したそうだが、とりあえず1年間という様子見合意に過ぎない。レアアースと半導体技術で、お互いが「やらずぶったくり」の腹の中。目の前のことだけにならないかどうか。