風景

公園からーEvergreen (水彩)

風景ー美しい自然環境や人間と自然の織りなす風土歴史的環境などを描くものそんな風に多くの人は思っているし私も長くそんな風に思ってきた

絵というのはどんなものを描いても自画像だという言い方があるもう少し私流に言いかえればどんなものを見てもそこにあるのは自分の投影だということ寂しい人にはどんなものも寂しく見え寂しいものしか見えてこない

美しい風景があるのではなく美しさを感じる心がそこにあるということだろう絵というものはきっとそうやってできているものだ

自分に帰る

「モデル」 水彩 F10

とうとう12月しばらく制作途中の絵から離れていた。1週間も遠ざかるとまるで絵の神経が切れてしまったかのように感じる描きかけの絵を一日中呆然と眺めるばかりで線一本さえ加筆することができない

やがて感覚が少しずつ戻りはじめ翌日くらいからやっと「自分」が帰ってくる

スタイル

制作中

絵画の世界では「これが私のスタイルです」を確立するまでが苦労でいったんスタイル=画風を確立さえすれば「これが私だ!」で自分も世間もそれで認める認められることになるようだ作家は皆必死で自分のスタイルを探し求め模倣し作っては壊して独自のスタイルを作りあげその努力を世は賞賛するというストーリーになっているらしい

確かに一朝一夕でスタイルは確立しない画家のあらゆる試みあらゆる感性や長い間に培われた絵画思想といったものがそこには詰め込まれている。sellepärast、スタイルを確立するということはその氷山の一角をついに水面上に出すということであってやはり賞賛に値するものだ

けれど一方で画家のスタイルは(比較していいのか迷うが)会社のロゴみたいなものだと考える人も少なくないロゴとはようするにブランドでありシンボルである大事なのはそれを生み出した人とその製品の内容であってロゴそのものに意味があるわけではない

ロゴやブランドが尊重されるのはビジネスの上でその品質が保証されてきたという実績があるからだブランドを汚すという言葉はその実績=品質保証を疑わせる製品を世に出すという意味だつまりブランドと中身は常に一致していなければならないということそれは同じレベルのものを作り続けるというだけでなく一方で常に進化・深化し続けることでもある社会環境の方が変化するからである

sellepärast、「これが私のスタイルです」と画家がいう時(そんなことを言うはずもないが)それは外側から見た「画風」の意味だけであるはずはない「私のスタイル」とは常に変化しかつ動じずということだろうそしてそれはたぶん一般の人が「スタイル」という言葉に持つイメージとは随分違った中身になるに違いない