teisele mõttele、基本は描くことだ

「 Apple Rain 」  ペンのスケッチにパソコンで着色

今年は「プチ断捨離」をした暑い中自粛ムードで出かけることが少なくなり部屋の狭さ(使わないものの多さ)を痛感したからだ(そのくせ数日後には「アレなんで捨てちゃったかなー」と後悔したり)その過程で昔買い込んでおいた安物の紙類があちこちから現れてきた

小さい頃は落書きをする紙が全然足りなかった算数国語のノートは周囲どころか表紙裏挙げ句は本体部分までの落書きでその隙間に授業のなにかが見えていた教科書の行間にも描きクラスの子のノートにも描きテスト中にもその用紙の裏に描いたときどき母は近所の家から捨てるような紙を貰いに回ってくれた

sellepärast、何にも描いていない紙を捨てるのは私には相当の罪悪感がある「高野聖」の作者泉鏡花が文字の書いてあるものを捨てるのはそれがなんであれ嫌がったというのをどこかで読んだ記憶があり比較は僭越だが深く共鳴したのを覚えている

Sellepärast、「何かを描いてから」捨てるつもりでそれらの紙にスケッチクロッキーを描き始めた。Siis、一本線を引くたびになにかが目覚めるような気持ちになるのだった

描けば良いってもんじゃない。aga、これはもう一種の病気中毒あるいはすでに私の持病なのだと感じた描かなければ死んでしまう描くことだけが効能ある薬と改めて思う「毒をくらわば皿まで」最後まで薬は手放せない

Alustame millegi uuega

「 Apple 2020」  2020 Tempera,Aqyla lõuendil

"Sinise kajaka näitus" toimub 20、Koronaviiruse all edukalt läbitud (?).。Panin müüki poolelioleva töö.、Kuigi kell on hilja, panen valminud tööd siin välja (kuigi palju pole muutunud).。

Isiklikult、Olen pikka aega tegelenud teostega, mida võib nimetada "Õuna" sarjaks.。Pole sellist asja, et see oleks üksainus tulemus.、On aeg lahendada seni katse-eksituse meetodid.、Eesmärgiks terviklik töö、Mõtlesin sellele tööle enne ja pärast.。

Arvan, et sel aastal on meil palju võimalusi selliseid töid näha.、Püüame juba integreerida mõningaid pisiasju, nii et、Need prototüübid、Olen kindel, et ebaõnnestunud töid tuleb tulevikus veelgi.。Ootused? palun。

Tulen tagasi sinise kajaka näituse juurde.、Ka seekord tundsin "ebaõnnestumise" tähtsust.。Kas kõik tööd, mis leiti, on "huvitavad" "läbipaiskumise piiril"?、Seal oli palju töid, kus "on huvitav katse ebaõnnestuda" ja "sa ei saa isegi aru, et see ebaõnnestub."。Avatus tunnistada mõningaid (või mõnda) ebaõnnestumist、Enesekeskne uudishimu on "ebaõnnestumise põhjus"、Selles mõttes、Ebaõnnestumine on see, mis see on、Usun, et see on inimese individuaalsuse päritolu.。

Kõik meistriteosed maalikunsti ajaloos、Enne eelmisi meistriteoseid on ainult "suured ebaõnnestumised"。Maali ajalugu on iseenesest läbikukkumise ajalugu.。barokkmaalid、Praegu nimetatakse seda maalikunsti kuldajastuks.、Sõna "barokk" ise、Sõna, mis tähendab "barbaarne" või "veider"。Tol ajal pidasid inimesed seda kummaliseks pildiks.。

"Sinise kajaka näitusel"、もっと変な絵(もちろん自分から変だなどとは思わないでしょうが)をいっぱい描きましょう新しい絵を描きましょう。aga、「新しい」とは何でしょうかそれは自分にとって「普通で自然で面白い」ということです。siiski、「普通」「自然」という意味が他人の決めた尺度ではなくあくまで「自分にとって」ということが条件ですことばは簡単そうですがこれを実現することは決してたやすくはありません

ここで「高齢者」という言葉を開き直り的に使いましょうもう先が長くないなんだかんだと言いながらここまでしぶとく生きてきた今さらこの先も他人目線の絵を描いていたら死んでも死に切れないのではありませんか?お孫さんやひ孫さんをかわいく描いてあげたってどうせ義理でしか喜んでくれません。kui see、新星爆発じゃないけれどもう一踏ん張りしてバクハツして死んだ方が楽しくないでしょうか?きっと子どもさんもお孫さんも「じっちゃんばっちゃんやりたいことやって死んだわうらやましー」って尊敬すると思いますけど

イメージと脳

「 Apple 」  2020  F4

まるでカボチャのようだなと自分でも思う別の細長く引き伸ばした「 Apple 」は「ピーマン」と紹介されたこれはきっと「カボチャ」と言われるに違いない

わざわざ「リンゴ」と訳して(?)くれる人もいる。oh kallis、カボチャでもピーマンでもどっちでもいいとしよう。aga、「リンゴ」は今のところちょっと抵抗がある英語圏の人に「リンゴ」と発音するなら音だけ聞いてもたぶん理解できないだろうから構わないが日本人に「リンゴ」ではたぶん「実物」とのイメージが切り離せないと思うからつまり Apple はあくまで「日本人向けのタイトル」だということだ

テーマは「線色」であってApple は単にイメージ(記号)として喚起するための仕掛けに過ぎないカンディンスキーに「点・線・面」という現代美術の出発点とも見なされる著書がある絵画の実体的な構成要素は確かにこれしかないのだがいろいろな考え方があり今は深入りはしないでおこう。õiglane、それが「絵画」として提示された瞬間にそれらが一斉に反転して別の新しいものになるそれが見る側との間にスパークする一種の「創作(作用)」だと私は考えている、Ütleme nii。

理屈っぽいが絵を描くということは単なる条件反射やカメラのような機械的繰り返しではないのだから程度の差はあれ誰でもそれなりの理屈を持って描いているはずだ「理屈で描くな」という古くからの名言?こそ一つの立派な逆説であろう何にせよ多少とも「脳」を刺激しない「創作」などあらゆる意味においてあり得ないからである