
現代(のたくさんのアイテム)についていけない、という人が大勢います(いるはずです)。高齢者の方の割合が多いということは容易に想像できますが、若い人の間にも、たとえばパソコンが苦手な人だってたくさんいるはずです。
日本は少なくとも一般的に先進国と呼ばれる国の中では、均質で、しかも会社、組織(というか、社会階層というか)優先で、あらゆることが上流から下流へ(できるだけ抵抗なく)水のごとく流れることを、暗黙に是としている国である(これを儒教的という人もいる)。それが海外の人々には秩序だっていて礼儀正しく、誰もがお互いに尊重し合っているかのように、見えるらしい。
日本は国際的に見て最も豊かな国の一つであり、世界中の多くの人々の憧れの国のひとつでもあるらしい。けれど一方では、その中で「ついていけない人々」は次第次第に下の方へ追いやられ、見えない存在になっていく、古~い昔の体質を残したままの国でもある。
そういう社会で、インターネット、オンラインで仕事や用事をするのが「普通」という状況が醸し出されると、多くの人が一斉に、均質的にそちらを向きやすい。ひとつの状況が、急速に「ついていけない」という人々を「生み出して」しまう。एक नज़र、誰も強制しているようには見えないが、苦手な人が否応なしに遠ざけられていく。無言の圧力が生まれてしまう。
(国の)豊かさとは単にGDPとかだけで測れるものではなく、どんな人でもコンプレックスなく、幸福に生きて行ける社会を持つことではないだろうか。一部分の人だけが適合・謳歌できたり、一部分を切り捨て、社会から見えないところに押しやるような社会は、たとえ財政健全、軍備最強であったとしても、まだまだ途上の、歪みを残した社会だと思う。そしてそういう社会へ向かう道筋を作っていくのが政治だと考える。
自民党総裁選たけなわだが、少なくともそういう方向性を探っていこう、という姿勢はどこにも感じられない。メディアも「誰が」だけを面白半分に捉えるだけだし、国民は誰がなっても同じだと思っている。恵まれた現在の国債環境にぬくぬくするのではなく、まだ余裕のある今のうちに、という発想はお金のことにしか使われなさそうだ。