わたしの健康管理

新緑の池

お暑うございますわが町(市)でも「7月7日として」は過去最高の 34℃ だったらしいです(たとえ7月6日や7月8日が 38℃ だったとしても)今日は午前中市で行う特定健診(健康診断)に行ってきました皆さんはちゃんと健康管理できていらっしゃいますか?

わたしの健康管理法(!)は重視する項目が子ども時代以来の胃感覚や肌感覚などの「感覚本位」つまり“テキトー”なのですがそれがわたしの身体に合っているようでそれなりに健康だと感じています(「それが危ない」はよく聞く話ですが)

食べ物に嫌いなものは“あまり”ありませんというより毎日似たようなものを食べているのでそもそも嫌いなものは食卓に出ないようになっているからですわたしの育った小さな半農半漁の地域では今で言う「地産地消」の素材本位のものが中心で現在のようなカラフルでおしゃれな食卓などテレビでしか見たことがありませんでした
 今はなんと言っても食卓がビジュアでルいいですよねーそれだけで食欲をそそりますお腹いっぱいになってもキレイなスイーツなどがあると女性でなくてもその色とかたちに誘われて一口だけ試してみたくなります「食欲」があるかどうかは健康管理の大事な観点です健康な身体だからこそ食欲があるわけですからねお腹がすくまでは食べないことも習慣になっています

もうひとつの面精神面での健康管理になると知的な刺激の程度や脳の休息の時間などカロリーを計算するようなわけにはいきませんから事実上コントロール不能です
 この面では私のバロメーターは「睡眠」だけ「睡眠」に関してはいろいろありましたが最近では何の薬も飲まずに眠れるようになっています睡眠障害の原因が分かっていること忙しさに押されて悩んでいる時間が無くなったこと(それはそれで問題だけれど)が今のところ眠れている理由のようです

「昭和」という時代

2日前にアップしました

どこまで貧しさに耐えられるかは本人の問題だけでなく周囲との環境との問題でもあるかもしれません(おっといきなり「貧しさ」しかも「耐える」からですか?)周囲の誰もが貧しい時は気持ちの共有がありモノの貧しさはあっても精神的には比較的平易だったようです落語の八っつぁん熊さんの世界ですよねそこに現代のわたしたちも共感できる理由はたったひとつ「わたしたちもそうだった」からです

 わたしは戦後生まれなので第二次世界大戦後の日本人がアメリカという国の本当の政治経済の豊かさに触れることが公に許されて近世以後では黒船来航以来二度目の自分たちの貧しさに気づいたという歴史的事実を学んでいます
 その貧しさを「物質的なものだけ」と勘違いして頑張ったのが1970年代の「高度経済成長期」だったでしょうわたしのひとつ上の世代です日本人はアメリカ人以上に鼻を高くしましたが精神の豊かさなどそっちのけでお金を稼ぐことだけに夢中な時代でもありましたベトナム戦争が終わる頃戦争せずに済んだおかげで懐が少し膨らみ最先端の働き蜂たちが少しくたびれ始めた頃になってやっと「貧しさから抜ける」から「豊かさって何なの?」と考える余裕が日本にも生まれたように思います

 現代はどうでしょうか「豊かさってなんなの?」と考え始めた1980~90年代のちっぽけな「余裕」さえ今はありません一応GNP世界第三位の日本ですが経済以外のあらゆる分野で遅れはじめ世界についていけなくなりつつあるのが現状なようです
 昭和の時代「経済一流政治は三流」と言われた日本ですがわたしの見るところでは「経済二流政治は最低よりちょっと上」政治はどんどん沈む底なし沼同然で、10年後、30年後、50,100年後へのビジョンというものが全くありません世界統一ナンタラカンタラという団体から政策ビジョンさえ託宣されている始末彼らが平成令和とつづく時代で何を成し遂げ何をつくったのでしょう世襲議員の多い中昭和の財産の上に乗っかってきただけではないのでしょうか

 昭和の時代は確かに今より物質的には貧しかった今はモノが溢れています。लेकिन、それらのモノによって精神的な豊かさややすらぎをわたしたちはちゃんと手にできているのでしょうか?昭和の時代がなんでも良かったなどとじっちゃんばっちゃんのような(実際じっちゃんですが)戯言は言いませんが少なくとも「このままじゃヤバイよ」という不安を取り除くためのビジョンを提示する発想も能力も政治には無さそうに見えます。नहीं、もしかすると日本だけでなく世界の多くがさまよい始めているのかも知れません皆があの時代は良かったなどと言わずに済む世の中になってほしいものです

世界

     「ムーン・カプセル2」2010  そういえばカプセルもシェルターも「閉じ」ていますね

おはようございますいま2023年7月3日(月)の朝ですお元気でしょうかわたしは元気と言いたいところですが「病気ではありません」という方が正直なところです一昨日あたりからの暑さもあるし皆さんの多くもそんなところかと推察しますいまビンビン元気な人を見るとちょっとつらい気分になるかもしれません

日本のメディアにニュースを報道する力がなくなったといわれてもう久しいのですが最近はニュースと天気予報との区別もできなくなっているようです気温が30度を越えればニュースになり大雨が予想されると言えばニュース番組の冒頭で取り上げますしかもそれを連日ニュースで取り上げることになんの疑問も感じないかのような報道姿勢と視聴の状況にある種の絶望感さえ覚えます
 フランスで18歳の少年を警官が射殺したことを巡って大きな暴動に発展広がっていることを日本ではまるで対岸の火事ニュースではまともに取り上げずあってもごくわずかのようです大谷翔平選手がヒットを打ったかどうかは出場の度ごとにホームランが出ればスポーツコーナーではなく“堂々の”ニュースです「ニュースで世界を知ろう」などとNHKをはじめメディアが子どもたちに呼びかけるその「世界」というのはどんな世界なんでしょうか

शायद、「喜ばれること」こそが少なくともいまの日本では「ニュース」の基準であり定義なのでしょうわたしこそ周回遅れの狭い意味でのニュースジャーナリズムのイメージに囚われているのかもしれませんメディアは企業であり「正義の味方」ではありませんましてや顧客でもない「人々の味方」などではありませんジャーナリズムはその企業の宣伝の一部分でありスポンサーと顧客のご機嫌第一と考えればすべてのつじつまは合うのですそれが「世界」の意味なのでしょう
 「少年よ有名人になれ有名選手になれ金持ちになることが勝者になることだそれが世界というものだ」そういうメッセージなのではないでしょうか

お金がすべてという世界観を少なくとも“世界の”過半数は(口に出すかどうかはともかく)支持しているでしょう。और、その目的は自分だけの世界を「繭作ること」芸術の分野で「自分だけの世界を創る」という言葉の意味とは方向性が正反対ですプーチン大統領がウクライナ戦争を始めた動機(と言われていること)ととても近いと思いますSNSなどソーシャルメディアが情報空間を格段に広げたのは間違いありませんがまさにそのことによって世界は一人一人の繭の中に閉じていくんだなあといまわたしは強く感じています

 ※いつも長くて済みません嫌なことを嫌な気分にならずに済むようにとつい長くなってしまうのです人の気に入ることだけ書きたくなる気持ちも解らないではありません