
晨春会展が始まり、初日、2日目と連続で会場当番をした。観客は閑散だが、わざわざこんな時期に来てくれるだけあって、ほとんどの人が熱心に見てくれる。ありがたいことだ。「何が何でも見たいと思った」という人は、朝から晩までコロナ、コロナでくさくさしていた気分がスカッとしたといって帰っていった。それこそわたしたちの望んでいたこと。
せっかくコロナを忘れに来たのに、消毒、来場者カードの記入など「また、コロナか」と腹を立てた人もいると聞いた。その人の気持ちもよく判る気がする。他のいろんなイベント会場でのコロナ対策を参考に、わたしたちもそれにかなり気を遣った。コロナそのものより、「対策をしていない!」と細かく糾弾する「自粛警察」の巡回の方が怖かったのが本音だが。日本にはこの手の「警察」がやたらと多い。このブログは10年前の東日本大震災の直後に始めたが、当時も「節電警察」という語が巷に聞かれ、そのことについて書いている。今とまったく変わるところがない。
午後4時を過ぎるとほとんど人は来ない。会場をぶらぶらしながら自分の絵をじっと見る。自分の絵の後ろにある、自分自身のの制作風景を見る。そして10年前、30年前の自分と数年後の自分の制作風景を重ねて見る。よく見れば、1枚の絵にはそういうことが描かれている。会場のどの作品もそんな風景を持っている。メンバーはほぼ一日中冗談しか言わないが、誰もがそれぞれの風景を自分自身と重ねて見ている。そういうメンバーでなければ35年も続くわけはない。この会は特別な会なのだ。
ワクチン接種が進めば、来年の今頃はコロナはもう記憶の彼方になるだろう。大震災の時の節電騒ぎをもうほとんど忘れているように。maar、本当はわたしたちは深いところで傷ついている。あの時も絵を描いたり、音楽や芝居をやっている場合かと世間には冷たい目で見られ、実際そのような仕打ちをされた。大衆とはそういうものだ。芸術はそういう大衆に、とりあえずお茶をどうぞ、という仕事だ。その一杯で心の変化が起こることもあるだろう。それが芸術だ、とも会場をぶらつきながら考える。