
laaste keer、ちょっと説明しきれないところがあり、補足します。本来は「きれい、気持ちいい」の中身を考えなければならないはずですが、字数の関係であえて触れませんでした。
前回の内容を一言で言うと、鑑賞者の立場での「きれい、気持ちいい」と、表現する立場からのそれとは同じものではない、ということでした。maar、多くの人は鑑賞者的な立場からのまま「きれいで気持ちいい」絵を描こうとします。ここでは鑑賞者と表現者の立場が一致しています。よく聞く「飾れるような絵を描きたい」という言葉が、そのことを示しているように思います。自分のことを振り返ってみても、確かにそうだったと思います。一方で「好きなように描けばいいんだよ」とも言います(私も)。そうすると「きれいで気持ちいい絵」が好きなら、そう描けばいいんじゃない?ということになりますね。
論理的にはそうなります。また実際にも「好きに描けばいい」のだし、そういう人が多数ならいずれ(世界も)そうなるに決まっています。Dis hoekom、ここまで来ると、前回一般論であるかのように述べたことが、むしろ私自身の「偏った」考え方だったということになるかも知れません。ek sien、考えてみるとそうかも知れません。私は多数決が必ずしも正しいなどとは思いませんが、現時点では鑑賞者の視点と表現者の視点が異なる(べき)という人の方が多いのではないか、そしてそれは大事な感覚ではないかと感じています。
ここまで来ると、どうしても「きれいで気持ちいい」の中身を一度問わなくてはならないような気持になります。少し急いでしまいますが、私はこれを「迎合」と「自然」とに区別できたら良いと思いますが、それを上手に区別する方法を知りません(単語が適切でないかも知れません。ご指摘下さい)。「迎合」は一つの歴史観、「自然」は一つの哲学と言っていいかも知れませんが、きっちり分けることは至難です。哲学者ならここを疎かにはしないでしょうが、私には難しい問題です。国語辞典とは違い、私の目の前の、間近に制作する「○○さん」に直結する意味でなければなりません。そのうえで「迎合」とは何かといえば、○○さんにとっては自分の育ってきた環境に自然に「なじむ」ことであるかも知れませんし、分類の仕方によっては単に「適応力」と同一視されてしまうかも知れません。「自然」もまた、「生まれたまま」ということは現実的にはあり得ませんので、稀有な自然環境の良い場所で暮らすか、ある社会的試練を経たのちの、「ありのままの自分」という一つの境地にたどり着いた「自然」なのかも知れません。そこでの個別性を、細かくより分けて言葉を定義していくことは困難ですが - それでも俯瞰的に見れば、一般的な「きれいで気持いい」が、幾らかはこれまでの(自然的・人間的)環境に対して迎合的なのかなと、偏見を承知の上で感じます。同じ水平線上で、自然とは(ある意味逆に不自然とも言えますが)より多く、自分の身についた迎合性を削ぎ落とした自分自身のこと(人によりけり)と定義します(人生の上で身についた「迎合性を削ぎ落とす」なんて、言葉の上でしかできないような気もしますけど)。
Na dit、「きれいで、気持ちいい」絵を描くのは悪いことなのか、という質問に改めて向かい合ってみたいと思います。①「きれいで、気持ちいい」は初心者の自然な気持 ②「きれいで、気持いい」の意味を立ち止まって考える ③それが自分自身の「現在・現実」に合っているならば、「善」と信じて迷わず進む。 きっと、私もそうしてきたのだと思います。