中学生になった気分です / I’d like to・・

ギターを弾く男(部分) a guiter player(part) 水彩 2012

Bəzən bu bloqda mənə də şərhlər gəlir.。Baxmayaraq ki, mən buna məhəl qoymuram、Çox nəşr olunmayıb。Belə ki、Şərh yazanların nöqteyi-nəzərindən、Təəccüblü deyil ki, bu, demək olar ki, tam sükut hissidir.。

I got some comments to this blog sometimes. Of cours I ‘ve read all of it, but I haven’t open to the web. So, It is easy to think that YOUR coments has been disregarded.

Şərhlərin çoxu tanıdığım insanlardandır, buna görə də eybi yoxdur.、Bəzən əcnəbi kimi görünən insanların şərhlərinə gəlincə,、bir anlığa düşün。Hətta elan etmədən də、Görəsən oxuyurmu? Görəsən mən də oxşar cavab verə bilərəmmi?。

Mostly of them are Japanese, but there are some people who may be foreigners I guess. Somehow I’d like to reply to them without open to the public. But, how?

Sadəcə ingiliscə yazın。Mən belə düşündüm、lüğət çıxarın、Qrammatika kitabını oxuyarkən yazsanız, onsuz da onu başa düşə bilməyəcəksiniz.、Mən bunun mənasız olduğunu düşündüm (əslində hələ də edirəm)。lakin、Məna bir az anlaşılmaz olsa da, sadəcə hisslərimi bir şəkildə çatdırmaq istəyirəm.、Son vaxtlar düşünməyə başladım。Baxmayaraq ki, ingilis dilimdəki utancımı gizlətmək istəyimlə mübarizə aparıram.、Buna kömək etmək mümkün deyil, çünki reallıq budur、Mən də düşünürəm。

So I ‘d like to write my blog in English as possible as I do, althogh I’m not good at.

belə ki、Mən bəzi pis ingilis dilini əlavə etmək qərarına gəldim (bəlkə də zaman-zaman).。İngilis dilini mükəmməl bilənlər、Zəhmət olmasa ingilis dilimi necə təkmilləşdirə biləcəyimi göstərin.。Çox sağ ol。

I hope you enjoy it with me from now.  2012/2/24

講座終了に向けて

 

ソファーのヌード F8 ミクストメディア

大学での最後のヌード制作が今週で終了十数年間にわたりたくさんのモデルの方にお世話になりました心からお礼を申し上げます受講者の方々も実に熱心に描いて下さった皆さんにも心からお礼を申し上げます一生に一度しかないかけがえのない時間を共に過ごさせていただきました

Həmçinin、多くの方に引き続き私の指導を受けたいとの希望を頂きありがたく感じております大学のような整った環境は外では得難く環境的な面で今後はいささか苦労するだろうと思いますがある面ではもっと率直に自分の考えを推し進めていけるという期待も持っています

絵画というものが指導されるべきものかどうかの議論は別にして受講されてきた方々が何を望んでいるのかそれに対して私がどう考えてきたかこれからどうしようというのかを簡単に述べておきたいと思います実際は私自身の中に迷いも不確かな部分もあり今ここで断定的に述べたとしてもより良いと思う方向へ転換していくことは幾らでもありうることだと思って読んで下さるようお願いいたします

20年にわたって絵画講座を担当しましたが初めは全くの手探り状態私も講師などの経験は無くただ自分自身の絵画観をそのままぶつけるだけでしたといえばメチャクチャな印象ですがなまの絵描きの卵が思い惑い右往左往するさまをまじかに眺める機会など滅多に無いことだという観点でみればある意味貴重な経験を提供したかも知れません。Amma tamam、講師としては掲げるビジョンも不明確でまずは落第だったでしょう

「絵画の技術・知識」については未消化ながら出来るだけ伝えるように心がけてきたつもりですいかに趣味であろうと絵画の材料はそれぞれ物理的特性を持った実物でありそれを活かさなければ不必要な労力と無駄なお金をつぎこむことになるばかりでなく作品自体をもより惨めな状態に貶める結果になってしまいますそのうえ古今の天才達が作り上げてきた絵画という技術的積み重ねの歴史そのものをも否定してしまいかねません

大学の講座ですから単にうまく描ければいいというのでは少し寂しいと思いました寧ろうまく描けなくてもいいから技術の習得を通して芸術に魅入られ時には芸術の犠牲になっていった人々への想いや造形表現への理解を深めることができたら教養としても自らを豊かにすることになるのではないかそれが私の「技術指導」の目的の半分でした具体的に言えば「模写」「古典技法」などがそれに当たります「絵画の歴史」的に言えば模写は絵画の勉強そのものと言ってもあながち見当違いではないのです模写ばかりのクラスを作っても良かったなと今でも思っています一般の「美術史」のようなものは私の能力を超えておりあくまで技術の範囲にとどまってきたつもりです

受講者の皆さんにとって「少しは上手く描けるようになりたい」「他人に自慢できるような絵を描けるようになりたい」という欲求は当然のことですここは「絵画講座」であって「美術史」講座ではありません制作上の具体的な技術指導をするのですからそれを求めて当然ですいろんなケースを想定し最も安易で最も効率的な方法を私なりにいろいろ考案しました「1.2.3ステップ法」(油彩)「明暗重視による構成」(水彩)などがそれに当たります技術指導の目的の半分以上はこのことに費やしています

Ancaq、満足のいく結果を得られた人はたぶん少数でしょう(実際にはすべての人がレベルアップしていますでも結果が希望のスピードについていけるはずはありません)程度の差こそあれ技術の習得には最低限の時間的経済的コストがかかります頭で理解できるようには体がついていかない場合もあったでしょう若い頃より余計に時間が必要ですが現実は厳しい面があります

これからも基本的な考え方は変わりませんこれまでの方法論が間違っているとも考えていませんそれでも「写生的な絵」への直接的な技術指導から「絵画的な」絵へ今よりさらに軸足を移してもらおうとは思っています「写生的な絵」を否定することなど誰もできません。orada、絵とは写生的なものだけでないもっと大きく広く深い楽しみを持ったものですそしてその中に自分自身が居ることが何より重要なことだと思っています絵画としての自立性を保ちながら(単なる独りよがりを越えて)それぞれの人生の結晶を絵画という形でも残せるようにしたいそのお手伝いになればと考えています

「ヘタでもいい」と言えるのは結果であって前提ではないと私は考えていますそれぞれ生きた証として傑作の一枚を残す(傑作でなくては残らないのです!)それを目標にしていきたいと思っています   2012/2/18

 

 

 

タイムカプセル

12月のベゴニア  F6 水彩 2011

実家にいる弟から封書が届いた。Ah、例の書類が出来たのだなと何気なく表を見ると宛名が息子の名前になっているなんだろ?

弟の簡単な手紙とともに一枚の葉書きが入っていたと見せてくれたのは息子が小学校4年生の時に書いた十年後の二十歳の自分あての葉書きだった十年後にも確実な住所を書きなさいと言われ実家の住所を書いたのだ自分としては必ず引っ越しをするに違いない(むしろして欲しい)との想いもそこに顔を出している

弟も面食らったようだが私たちはもちろん本人ももうすっかり忘れてしまっていたらしい葉書きには三人で那須に行った時の写真が印刷してあった三脚を使って自分で撮影し自分でパソコンを使って印刷した葉書きに学校で文章を書いたという

十年は短い私たち親から見れば子どもは図体ばかり大きくなるが中身はちっとも成長していないように見えるでも子どもがそれを書いたときは10歳それまでの人生と同じ長さの未来など遠い遠いかなたに違いない私自身の記憶に照らしてもそうだ

葉書きの最後に「お父さんお母さんはどうしているかな死んでいないといいけどな」とあった子どもにとって親は国よりも社会よりも身近に血の通う形で自分を守ってくれるかけがえのない存在だその存在なしに未来に夢を架けることはできない親の不幸不運無能はそのまま子どもの未来に影を落とす一瞬自分はどんな傘をさしかけどんな影を投げてきたのだろうと心を探り見た

東日本大震災で親を失った子どもたちはそうした影さえ失ったのだと、Yenə düşünürəm。「死んでいなければいいけどな」とは子ども心にそんな現実を感じていることの表れでもある十年後の今「お父さんがもう少し社会的にまともな人だったらなア」と不運を感じているかも知れない

子どもは親を選べないだからこそ子ども自身に理想が必要になるのだ親を尊敬するという子どもを私は好まない(それ以前に尊敬されない)(子どもから見て)親など飯と金さえ出してくれればそれで十分という存在だ親を踏み台に自分の世界を作って行ければそれで良い私も10年後の自分へのタイムカプセルを残してみようかと思う 2012/1/28