渋谷

ミュシャ展会場入り口

久しぶり(本当に久しぶり)に渋谷に行ったBunnkamuraへ話題の「ミュシャ展」を観にその前に川越のギャラリー・ユニコンで「佐々亮暎展」を観たのでついでにと東武東上線地下鉄有楽町線メトロ副都心線と乗り継いで渋谷へ普段は利用しない路線なのでナビがないと迷ってしまいそうなほとんど聞いたこともない駅ばかり

地下鉄から渋谷の「地上」へはどこの国のどの駅かと思うほどに(私には)目新しかった日本人かなと思えば中国語か韓国語(日韓関係の悪化からか韓国語は激減した感じがする)中東系アフリカ系ヨーロッパ系の人たちが(住んでる風に)普通にいる大河のようなものすごい人の流れと人口光の乱反射ハチ公前に出る地上に出ればまあそれほど異国感はなかったが

ミュシャ展は多分どこかのTVで宣伝しているのだろうとても混んでいた若い人が多かったように思う混み具合も内容も予想通り何度も観たことのある絵柄だしデッサンのうまさもわかっているし亜流に興味はないし漫画へのこじつけも予想通り初めて観る人にはこの混み具合は少しかわいそう油彩によるエスキース(アイデア・スケッチ)4点だけ近づいて観た

急いで渋谷駅に戻り「地上3階の地下鉄」銀座線へと登るここへの狭い階段は少なくとももう50年近く古いまま地下通路との時代ギャップがすごいこの共存感が半端じゃないのが大都会なのかな表参道で千代田線に乃木坂国立新美術館は黄昏時で空いていた新制作展行動展両会場内をぐるぐる巡る良い作品もあるがつまらないものもどっさりそんなものだろうが観ることがすべての始まりだ

ひさしぶりに歩き回ったので駅での下り階段では左膝の腱が注意信号無理すれば本当の膝を痛める限界だ帰宅したら訃報が待っていた

葛飾北斎と伊藤若冲

「奇想の系譜」展が東京都美術館で開催中だまだ見ていないがぜひ行ってみたい展覧会だ学生の時(今から44年以上前)本で読み以来ずっと私の脳の片隅から消え去ることがなかった一つの絵画論としての辻惟雄「奇想の系譜」私の秘蔵書の一つだが本展はこの本の「視覚化」だイメージとしては本の方が強いが見ない理由はない

昨年(一昨年?)若冲展があったが大評判になり長蛇の列のおかげで見ることができなかった見に行った人からの賞賛を聞いたり図録を見せてもらいながら「若冲なんてそれほどのもんじゃない」と改めて感じた人気はマスコミが作り上げた虚像だ

そう言うからといっても私は若冲の批判者ではなくファンの1人である多くの人がその名を知らない頃から私には「これが若冲だ」と言う好きな絵があった「群鶏図」若冲にはそれ以上の絵はないところが先述の「若冲ブーム」があってあたかも若冲が日本絵画を代表するかのような錯覚が(一時ファンの間で)起きている私も若冲は好きであるが北斎と並べようなどとは思わない若冲狂いには悪いが「格が違う」。Aga、違っていいのであるそれが若冲を貶めることには必ずしもならないことが若冲たる所以だと理解できない人は「若冲ファン」を標榜するのをやめた方がいい

曾我蕭白も楽しみだ彼などある意味「国際作家」北斎を超えている彼らの天才性を見るということは私たち真面目人間には真似のできない凄さを体感すると同時にそれが「私たちと同じ」人間のしでかしたことを見る嬉しさを感じる時間ではないかと期待しているところ

風景画の試み

「風景」習作

今年は「風景画家」になるそれが目標ととりあえず宣言しておこう
あっその前に「あけましておめでとうございます今年もよろしく」です

毎年何度かチャレンジするがいつも中途半端で挫折風景が問題なのではなく考え方がちゃらんぽらんだからそしてなんの反省もなく同じことを繰り返す繰り返すほど失敗データだけが積み重なり頭は失敗のカスだらけになる

「風景画家」はともかく私だけでなく現代のどの画家にとっても風景画は難しいそれは写真の視覚と戦わなければならないから写真の機構機能的レベルはすでに人間を遥かに超えているしかもそれが誰の手にもありそのレベルに慣れっこになっているどうやってそれと戦うのか?その戦略なしに迂闊に風景画など描けないから

もちろん私たちの頭はまだ19世紀にあるから通常は普通の風景を上手に描いていれば(むしろその方が)十分に楽しい