men、何歳くらいで上達が止まるかという質問には、実は意味がない。80歳から始めても、情熱があるうちはどんどん上達する。一方20歳で始めても4、5年経つと上達が止まる。i det mindste、目に見える上達の程度というのはそんなものだろうと思う。つまり技術的なレベルというのはある程度決まっていて、早かろうが遅かろうが、とにかくそこがゴール。I den forstand、なるべく早く到達する方がそのあとの時間が長く使えます、って感じでしょうか。
「うまくできないところがある」。それをどう乗り越えるかは経験によって変わってくる。体力と違って、経験は増える一方だから(物忘れもあるが)、体力の低下を経験智で補なうどころか、それによってもっと発展的な技術を生み出せる可能性は、けっして小さくはない。 kort sagt、どんな場合でも、がっかりすることなどないってこと。練習することで誰でも「経験智が増す」。「できないことがある」から、経験智が一層深く豊かにもなれる、ということなんですよね。―練習しましょうね、alle sammen。
Da jeg gik i folkeskolen、わたしの実家の畑からもたくさん縄文土器が出てきて、それを母が「絵に描いてみたら?」とか、わたしに持ってきてくれたことを思いだす。På grund af det,、彼のモチーフを使って何点か描いてみた。そしたら、「あれっ?これ、もしかしたら岡本太郎の「太陽の塔」のモチーフ(出発点)なんじゃない?」と思ってしまった。
幸運にもわたしは岡本太郎氏と二度お会いし、二度ともほんの短い間だが言葉を交わすことができた。一度目はまったくの偶然。わたしがある外国の画家を、たしか神田にあった国際交流センター(正式名称確認していません)に日本滞在の相談で同行した時、たまたまそこに用事があったらしい太郎氏が突然現れ、話しかけてきたのでした。他に人もいなかったので、比較的ゆっくりお話を伺ったのですが、わたしが舞い上がってしまったのか、どんな話をしたのかは具体的によく覚えていないんですよね。 そのつぎの、日本での個展の時は、図録にサインすることを嫌がっていた太郎氏に、わたしは無理にお願いしサインしてもらいました。På det tidspunkt、太郎氏が(ただのサインを有難がるなんて)「理解できないね」とフランス語でぶつぶつ独り言を言ったのをよく覚えています。