Sa kabaligtaran,、「わたし」を捨て、「わたしたち」を大きくすることで人間は社会を作り、文化を創り出せたのだ、という言い方もできるかもしれない。pero、最近は「わたしたち」では文化は創り出せないような気がしてきた。「わたし」しか、できないのではないか、と考えるようになった。ベートーベンは「わたしたち」ではない。「ピカソ」も「わたしたち」ではない。「わたし」のスペースをもっと拡大しなければ、「わたし」は他人の誰かの陰に隠れたまま、イワシやミツバチのように終わる。それもまっとうな生き方の一つではあるけれど。
風呂吹き大根の真ん中に芯が残って、箸で4つに千切れない。熟し過ぎてふにゃふにゃになった柿が、皿の上にだらしなく伸びていて、手で持ちあげることが出来ない。包丁の出番である。とりあえずどちらも十字に切りさえすればなんとかなる。アーメン。包丁って便利な発明品だとあらためて考えた。 「それを言うなら鉄の発明、だろ」と正当過ぎるツッコミを入れないでもらいたい。Siya nga pala、我が家でこういう状態の柿を食べるのはわたしだけである。特に好んでいるわけではないが、なぜかときどき目の前に寝そべっているのである。今年は特にその頻度が高い。ngunit、迷惑なわけでもない。硬い柿と、ぐでぐでの柿とはまったく別種の果物だと割り切れるかどうか、だけである。一度など、すでにアルコール発酵が始まっているやつも食べたことがある。もはや珍味である。