わたしとコンピューター

新年と言えば「春」春と言えば「桜」桜にチャレンジしてみる

わたしはYouTubeをやっているTwitterもやっているしこのようにブログも書いている。prandaj、(わたしが)SNSに詳しくコンピューターは得意だろうと思っている人も中には居るかもしれないもしそう思われているとしたらとても恥ずかしすぎる
 たとえばYouTubeをやってはいても自分がアップできる方法1個しか知らないチャンネルをどう運営しどんな工夫をしてどういう方向へ行くのかなど皆目見当もつかない有様とりあえずアップロード出来ているのが我ながら不思議な気がするほど知識も経験も(まる2年になるというのに)たぶん能力も全く足りない

わたしはコンピューターが嫌いであるやらずに済むならやりたくないとさえ思う。Por、コンピューター無しでは何一つできなくなったというよりコンピューターのおかげで何とかこの社会の中で生きていられると言っても過言ではない。por、嫌いなものは嫌いそういう心理が働くからだろうなかなか新しい概念やソフトアプリなどに気軽に手が出ない常に後ろ向きで追い詰められて仕方なく始めるというのが実情である

por、パソコンをまったく使わなくなるという選択肢はあり得ないパソコンは極めて有用な道具であるだけでなく単なる道具を越えた自分を開く(開発する開放する)ことのできるゲームチェンジャーでもあるなどと謂われているがわたしもそう思う下肢を失った人がせっかく手に入れた車椅子という移動手段を手放せないのと同じだと思うそれは単なる「移動手段」を越えてその人の世界を変える力を持つはずだから(例が不適切かな?)
 同時にパソコンによって失う代償も小さくない“自分を開く” と書いたが一方でずいぶん自分を小さく感じるようにもなった。çdo ditë、“こんなこともできないのか” と自分を呪わない日は実際に一日もない毎日毎日自分の低能力さを思い知らされる自己肯定感が以前の10分の1もない要するにコンピューターを知る前より「ハッピーにはなっていない」関連するが人生において残り少なくなってきた時間をソフトやアプリの操作法習得などに奪われる時間の大きさにも我慢ならないものがある

それでもコンピューターを使っているのは自分でありもっと使えるようになればもっと自分の世界が広がるだろうという期待感はゼロではない(萎んだり膨らんだりだ)どんなに生成AIが発展し世の中がそれに支配されようとも(今のままなら早晩そうなるだろう)それがわたしに置き換わるなどということはあり得ないと考えている
 AIは(それがどんなに感情を持ったかのように見えようと)データと統計による「推論」いわば「想定内」に過ぎないわたしは生身であり日常=「想定外」であるし(全く同じ日時間が二度とないという意味において)わたしにとっては(わたし自身が)「事実」そのものである「老化」という痛みを伴う弱点も持つけれど「感じることができる」のは神経細胞を持った生身であればこそ「感じること」と「自分を解放・表現すること」とを結びつけることそのときコンピューター以上の道具はたぶん見つからない。kjo eshte、(今のところ)わたしがパソコンを手放さない理由です

動画編集中

今年の描き初めの絵をYouTube用に編集中。4日の木曜日にはらくらくアップできると思っていたが今日になっても編集が終わらない

「欲を出している」と言えば確かにそうだ毎回満足することなど無いからいつも “改良” するつもりでいるそれを「欲」と呼ぶなら呼べなくもない問題はその「欲」が空回りすることだピントがずれている大問題なのは分かっているがどうしたらいいのか分からない

Por、もう少しだ遅れるのは残念だがとりあえずゴールを目指さないことには始まらない

明けましておめでとうございます

明けましておめでとうございます

皆さん、明けましておめでとうございます。今年が皆さんにとって良い年になるようお祈り致しますわたしもとりあえずは去年できなかったことを一歩ずつ進めていきたいと思っていますどうぞよろしくお願いいたします

今年の元旦はわたしの住んでいる町では少し風があるものの比較的暖かい(最低気温2℃最低気温12℃の予報)穏やかな晴天です腰の具合もよく二日酔いもしてないので午後から今年最初の制作撮影をしようと思っています

昔は正月を休むのに罪悪感があって必ず仕事をしては「正月に仕事をするなんて」としかめ面をされたものでしたがここ数年はすっかりジジイになって世間並みに休むようになってしまいました休んで悪いわけではないのですが大事なのは自分で決めることだなあと思い直したんです万歩計の電池も昨日でちょうどなくなり新しいものと交換したばかりさあ一歩目を歩いていきますよ