
言霊(ことだま)というのは、むかし文章を書く人たちの間で「一つ一つの語句、文にも魂が宿り人に伝わるから、けっしていい加減な言葉をつかうべきではない」という戒めとして、よく言われていたらしい。
わたしはひねくれものだから、絵画などの造形表現がそうであるように、革新・破壊をもっとする方が良い、などとまるで今のトランプ氏のような考えで、言霊なる単語自体を軽視していた。
Por、最近になって、それはわたしの浅はかな理解だったのではないか、と思うことが多くなった。それはむしろ「有言実行」に近い意味を持っているのではないか、Kjo do të thotë。有言云々もまた少し解釈がずれるが、それ自体が逆説的な言い方であって、「『実行(実現)したいならば』有言する意」でもあり得ると。
他人に対してだろうと、自分に対してだろうと「言葉に出して言う(書く)」ことは、その瞬間からそれは自分を離れて独立した一つの「新たな存在」となる。その存在が自分を縛り、同時に先へ進める推進力ともなる。そんな意味を持っているのではないか、ということである。むろん、もともとの意味は初めに述べた通りであろうが。
言葉を慎めと言うだけでなく、可能にしたいことを言葉にすべきだということ。そしてさらに言えば、望まないことを言葉にしないということにもなるかもしれない。いわゆる「忌み言葉」には、きっとそういう感覚が宿っているのだろう。言霊のほうが自分より上位になって、自分自身を変えかねないという、ある意味で怖い感覚でもある。「良き言葉、悪しき言葉も自分に還る」それが言霊の真意ではないかと。