आहार

「チューリップの鉢」 テンペラ 2021

 ここ1,2ヶ月の間に「瘦せましたか?」「何かあったんですか?」と何度か聞かれたダイエットの効果が見た目にも表れてきたということだろう昨年10月末からのダイエット今も継続中―現在62.5~63.5kg を行ったり来たり体調すこぶる軽快であるご安心くださいメタボ検診で引っかかった時が身長169㎝、74kg (コロナ前は69kg )だからコロナ前と比べても6kg 前後減り久しぶりに高校生の頃の体重に戻ったことになる体重の減少は目に見えないが腹囲が減少し始めたのでその変化が周囲にも見えてきたということだろう

 体重が 1kg 減ると腹囲はだいたい1cm 縮むというホンマかいなと思っていたが本当に10cm 近く腹囲が縮まった以前のズボンはどれもダボダボすべてのベルトは10 cm カットしないと使えなくなったへそ回りの皮下脂肪の厚みはあまり変わらないがその下の時には前かがみが苦しいこともあったほどの脂肪はスッキリ消えたメタボ検診で引っかかっても本当はあまり肥満を感じていなかったがダボダボのズボンを穿くと逆に検診前の体が目に見えてくるような気がする

 予想もしていなかった一番の嬉しい変化は「睡眠薬」が不要になったことである「頭内爆発音症候群」というのを前に書いたことがあるが要するに頑固で意地悪な睡眠障害が長い間本当にわたしを苦しめていた。वह है、やっとここ1ヶ月服用無しで眠れるようになってきた(まだ1ヶ月だけだが)これはウォーキングの効果だろう
 もともとわたしのダイエットの(2番目の)目的は肥満気味の息子のためでもあった子どもは誰でも○○禁止とか○○した方がいいよという命令的な言い方や誘導には敏感に抵抗するものだ(わたし自身がそう)ましてや自分がメタボのくせにああしろだのこうした方がなんて言っても聞く耳など持たせられるはずがない。इसलिए、(もちろん自分の健康が第一だが)ダイエットの効果をわたし自身が実感・実証して彼の眼に見える資料一種のモルモットになろうとしたのでもあった

 メタボ検診の会場にはこれ見よがしに「1㎏」「3kg」と標された「脂肪の塊」の模造品が置いてあるわたしは「3kg」をこっそり手にもって自分のお腹に当ててみたそのずっしりした「嫌な重さ(これが金とかプラチナだったら!立ち上がれないほどあってもいいが)」それが23個も自分の身体から消えた―その心地よさは頂上に立ったときの登山の喜びがずっと続いているような―感じ
 もう二度とアレを2個も身体につけたくないそれが今の心境

एक दिन की सीजी डायरी से विचार

200531 दिसंबर की डायरी

लगभग 20 साल पहले, सीजी चित्र डायरियाँ इस तरह दिखती थीं (डेटा से कॉपी की गई)。इससे पहले, मेरी चित्र डायरी एक स्केचबुक में बनाई गई थी।)。उस समय तक, जब डायरी लिखने की बात आती थी तो मैं एक आलसी लेखक था।、जब तक मेरा बेटा अपनी डायरी लिखने में सक्षम नहीं हो गया।、यह एक चित्र डायरी थी जिसे मैंने, एक अभिभावक के रूप में, लिखना शुरू किया।。
यह उस व्यक्ति को इसे दिखाने का एक त्वरित तरीका था जो अभी तक पढ़ नहीं सका, लेकिन यह इसे हर सुबह दिखाने का एक त्वरित तरीका था।、जब मैंने इसे आज़माया, तो मैंने पाया कि एक डायरी, एक तस्वीर जिसमें मैंने अपने बारे में नहीं लिखा, बनाने से मुझ पर कोई अतिरिक्त दबाव नहीं पड़ा।、मुख्य पात्र के रूप में उनके साथ एक मुखपृष्ठ और चित्र डायरी、彼が幼稚園に入る直前から中学を卒業するまでのあいだ予想外に面白く続けることができた
 友人の美術家が自分の息子の幼稚園への事務的な連絡帳を世界にたった一冊の、मस्ती करो、面白く貴重な成長の記録として劇的に再創造してしまっているのを見せられ大きな刺激を受けたのがきっかけだった

 息子はパソコンが「生まれつき?」得意で彼が幼稚園の年長さんの頃にはすでに彼はわたしの「パソコンの先生」であった―というのは事実であるローマ字入力の必要上、मैं ही वह व्यक्ति था जिसने उसे वर्णमाला सिखाई, ``एइउओ''、वहां से उन्होंने खुद ही इंटरनेट पर सर्च किया।、मैंने अधिकाधिक आवश्यक ज्ञान ग्रहण किया।。

“कोई बटन दबाएं” जब शब्द कंप्यूटर स्क्रीन पर दिखाई देते हैं、幼稚園児だった彼は「これはどこかのキーを押せって意味だよ」と即座に言ったのをわたしは聞き直した当時のパソコンはwindows 3.0 मच्छर 3.1 だったはず爆発的に広がった windows 95 の3年か4年前である英単語などまだひとつも知らないくせに感覚だけですでに多くの英文の意味を理解し使っていたのは今考えてもすごいと思う
लेकिन、じつはそんなふうな体験をする親はたくさんいるのではないか。नहीं、むしろほとんどの親がそうなのではないか、मुझे लगता है。子どもの能力は桁外れであるまるで人間サイズのIPS細胞だ。आप कुछ भी हो सकते हैं、कभी अधिक नहीं。यहां तक ​​कि हमारे माता-पिता की ओर से भी、मुझे यकीन है कि जब मैं बच्चा था तो ऐसा ही था।。
-लेकिन、यह क्षमता विकसित क्यों नहीं की गई? इसका एक कारण माता-पिता की ज़िम्मेदारी भी है।。दूसरी बात समाज की जिम्मेदारी है.、इन दोनों पर अलग-अलग विचार करना व्यर्थ है।。दूसरे शब्दों में,、इसका मतलब यह है कि यह माता-पिता सहित सामाजिक वातावरण है, जो बच्चों को उनकी क्षमताओं से वंचित करता है।。
तथापि、यह सिर्फ तात्कालिक वातावरण के बारे में नहीं है,、इतिहास、उन चीज़ों से जिनमें समय की धुरी शामिल होती है जैसे कि लोककथाएँ、विचारधारा और शिक्षा जैसी मानवतावादी पर्यावरण धुरी、एक विशाल स्थान जिसमें सभी स्थानिक धुरीयाँ शामिल हैं जैसे कि प्राकृतिक वातावरण जिसमें आप पैदा हुए और पले-बढ़े।、यह शक्तिशाली है。मैंने "माता-पिता की ज़िम्मेदारी" लिखी、इतनी बड़ी चीज़ के भीतर संघर्ष करते हुए हम माहौल को थोड़ा सा ही बदल सकते हैं।、親個人にとっては重すぎるほどに大変なことなのだ

हालांकि ऐसा नहीं है、「仕方ない」では済まされないすでに高齢である自分たちを含めすべての人々の「何にでもなれる」未来がそこにかかっている以上少しずつでも変えていく以外に途はないのも事実である
हालाँकि मैं शक्तिहीन के करीब हूँ, मेरा मानना ​​है कि मैं शून्य नहीं हूँ।、अनंत प्रतीत होने वाली दूरी की ओर चींटी के कदम बढ़ाना。
यह तथ्य कि अंतरिक्ष जांच "हायाबुसा" ने 150 मिलियन किमी दूर स्थित क्षुद्रग्रह "रयुगु" तक आगे-पीछे यात्रा करते हुए छह साल से अधिक समय बिताया, कई लोगों को छू गया।。その「はやぶさ」はすでに次の10年を新たな小惑星に向かって進んでいるうっかりするとはやぶさが再び地球に変える前にわたしたちはもうこの世にいないかもしれないがそうやって人が少しずつ何かを変えていることもまた事実ローマへの道も一歩からローマは「りゅうぐう」より近い

スケッチ会

椰子の実オウムガイ水差しなど  (2010頃のスケッチ/ 鉛筆水彩)

一昨日(6/15)久しぶりにスケッチに出かけた最近はタブレットを使って描いてばかりだから手が動かないかと心配したが杞憂だった風景スケッチは楽しい見て歩くだけでも楽しいのに描いたスケッチが手元に残るというお土産もある仲間がいるのもいい

以前は多人数でスケッチに行くのは億劫だった一度スケッチに出たら最低でもスケッチブック一冊(今は17ページくらいのものが多い)を描かなくては気が済まなかったスケッチは続けて描くうちにリズムが掴めてきてぐんぐんスピードがあがりシャープになり視点も研ぎ澄まされてくるものだ。इसीलिए、だらだら描いていてはいけない描いたらすぐ移動することを繰り返すのが上達のコツだと思っている多人数ではそんなマイペースが守れない

लेकिन、最近は気心の知れた仲間たちとスケッチに行くのも悪くないと思うようになった教室の人たちのレベルが上がり何とかペース合わせられる程度になってきたせいもある(わたしも随分我慢強くなったし)がスケッチとそれを描く人とのあいだに興味が移ってきたことが大きいような気がする

「スケッチとそれを描く人のあいだ」「人間性」といえば少し大げさな気がするがまあ「人となり」というのがそれに近いだろうかおっとりした人がゆったりした絵をかくとは限らないおしゃべりな人が饒舌なスケッチを描くとは限らないのだ下手な絵にも存外深い意味はあり遠近法の狂った絵にもその人となりが鮮やかに輝くこともあるだろう世間話をしながらその人の描きぶりを見スケッチを見る。वो करें、いわば人間のスケッチもする。ओ भी、というよりもしかしたらそちらの方が面白いと感じるようになってきたのかもしれない