kolmemõõtmeline tunne

手前が水彩で描いた絵奥が実物(制作時はもっと上からの視線)

見る人が絵に求めるものは様々ある人は写真そっくりなものがいいと言い或る人は写真のようじゃ詰まらないというまたある人はそもそもかたちなど必要なく色さえ無くていいという実際にキャンバスをそのまま展示したりそこに傷やシミを作るだけで「作品」という作家もいるなるほど確かにそれも有りだ見る人がそこに何かを「見出す」ならば

子どもの頃はそんなとは全然考えたこともなかった実物そっくりに描きたいと思ったこともなかったが「頭の中にあるものは眼に見えるようにしたい」とは強く願っていたのは間違いない

そんな時おとながちょっかいを出す「これを描いてみろ」どのおとなも想像力というものが無かったから写真のようにつまり写実的に描いて見せるより説得力のある方法はなかった子どもだからそんなことを論理的に考えたわけではないが直感的に分ってしまった
 それでいろいろなものを描いた特にお札を描くとおとなは面白がった紙幣はレベルが高いので描く側にも挑戦し甲斐があったからそっくりに描くには観察力が要るそれも描く側からではなく観る側に立っての大きくなってもそれらの(想像力に乏しい)要求は絶えることがなく従って今でもそれに応えるだけの写実力は捨ててしまうわけにはいかない

立体感を喜ぶ人が多いなぜだか本当はよく解らないたぶん平面なのに立体に見えるのが不思議な感覚になるのだろう描く側から言えば別に立体感など作っているわけではないただただ見えたもののデータを或る美術的関数の中に入れればこうなるだけのことだ創作力というのはその関数以外のこと描いているとそんな風に思えてくる

sinine granaatõun

Eile 18:00Olen selle üles laadinud

Laadisin selle eile üles。Suutsin selle eile päeval üles laadida、Proovisin seda uuesti uuesti läbi vaadata ja tegin pärast päeva edasilükkamist mõned parandused.。

Selle video esimeses pliiatsi visandis on näidatud visandiraamatu kaudu kulgeva pliiatsi heli.、Mul kulus palju aega, et proovida see heli maha jätta。Kuid lõpuks pidin ma kõik kõrvaldama.(> _<)

Foto, mis on tehtud Atelieri nurgas、Ma redigeerin seda、Välismüra filmimise ajal on kohutav。Olen joonistamise pärast nii hull, et vaevalt kuulen auto heli.、Alustame redigeerimist、Nii kurb on näha, kuidas nad mürast elavad.。Veoautode õhupidurid、Mootori heli puhub、Katik tuulesurve all。Eriti kui proovite valju heli välja lülitada、Olulised kaadrid on ragistatud。Ka mu süda on purustatud、Ma ei saa isegi tunda, nagu tahaksin murtud kaadrid tagasi oma algsesse olekusse、Visake kogu heli ära、Mul õnnestus see kõik korraga üles laadida。

Kui selle avate, vaata、Lõppude lõpuks ei suurene vaatamisnumbrid。See laaditi üles aga nädalapäeval、Ma arvan, et see on ju ebameeldiv video.。Isegi kui seda on raske kuulda、Võib -olla oleks parem olnud hea heli。Ma tahan helikindlat stuudio。Suures linnas on ilmselt palju üüriruume.、See pole väikelinn。Ka teema oli keeruline、Kahekordne、Olin Mie pettunud。

Käisin Chikami Saitamas

倉田白羊のスケッチ
文谷有佳里「なにもない風景を見る(部分)」

久しぶりに最高気温が30度を下回るというのでちょっと遠いが歩く距離はあまりない北浦和の埼玉県立近代美術館(埼玉近美)へ行ってきた

一歩外に出ればそこには何かが転がっているものだ埼玉近美のMOMAコレクション展は「旅」がテーマだったらしい上の絵は明治の画家倉田白羊の旅先でのスケッチ小さなハガキを変形したくらいのサイズのスケッチブックというかもっと薄手のクロッキー帳のようなざら紙に描いてあるそれ自体がすでに一枚の完成作といってもいいくらいにきちんと描いてある画家に限らず芸術家というのはどうしてみんなこうも律儀なほど作品に対して誠実なんだろう。esiteks、そのことに胸をうたれる

下の絵はここ数年のコレクションらしい文谷有佳里(ぶんやゆかり)氏の「なにもない風景を見る」の部分全体を見てもこんな感じだから具体的に何が描いてあるのかはよく分からないよくわからないのになぜか非常に具体的なものばかり描いてあるように見える直線はきちっと(もしかしたら烏口かなにかで?)製図のようにというより製図されている(紙がケント紙だったかどうかまでは確かめそこなった)
 さらに見るとそれぞれ思いつくままに(多分そうだろうけれど)描いてあるはずなのにフリーハンドがただのフリーハンドではない時には雲形定規か何かを使ったようでいい加減な線というものがない線の太さもあえてできるだけ均一にしているようだ
 わたしたちが普通に見る都市の風景は見た目には一見雑然とはしているけれどそこに見える建築や道路橋などの構造物さらにそこを走る車や電車や広告看板でさえそれぞれきちんと計画・設計されたものばかりでできている(はずである)それらのすべてがその過程で一度は製図されなかったものなど実は一つもなかったことに思い至るそんな「計画づくめの風景の現実(の風景)」を見ているような気がする

あえて見たいと思わせるものなど一つも描かずに確かにこれは現代の風景を見せられているんだなあと感じさせる(入場料200円は安いよたしか12月中旬までやってる)